疫病予防にとりあえずビール!?東京新橋発の明治時代ビアホールブームの真相とは
1899(明治32)年に東京の新橋で生まれたビヤホール。開店と同時に一大ブームとなり、東京各地に雨後の筍のごとくビヤホールが増殖していきました。なぜビヤホールは明治時代の人々の心をとらえたのでしょうか? 『串かつの戦前史』において、東京におけるビヤホールの歴史を描いた食文化史研究家の近代食文化研究会さんが解説します。明治時代の新橋で生まれたビヤホールビヤホールライオン銀座七丁目店(画像:近代食文化研究会) 写真は1934(昭和9)年創業の、現存する店としては日本最古のビヤホール、ビヤホールライオン銀座七丁目店。 今年(2022年)に登録有形文化財(建造物) となった、建物自体が貴重なビヤホールです。 ビヤホールライオンの生ビール(画像:近代食文化研究会) 昭和初期のレトロモダンな雰囲気の中で、おいしい生ビールを飲むことができる店です。ハードルの高そうな店に見えますが、実際には飛び入りのお客様にも優しい店ですので、銀座におこしの際には是非、立ち寄ってみてください。 日本初のビヤホール 恵比寿ビヤホール開店広告(画像:近代食文化研究会) これは日本初のビヤホール、恵比寿ビヤホールが開店した1899(明治32)年の広告。 恵比寿ビヤホールの所在地は、ビヤホールライオン銀座七丁目店のすぐ近く。新橋方面に歩いて3分の、現在の銀座天國ビルがある場所でした。 日本初のビヤホール所在地 現在の銀座天國ビル(画像:近代食文化研究会)なぜ「ビヤホール」という名前がついたのか? ビヤホールが生まれた経緯、そしてなぜ「ホール」という店名がついたのかについては、『食通 1938年11月号』の記事「『ビヤホール』の名付け親」に説明があります。 ビール会社の重役を務めた橋本卯太郎という人の証言によると、それまで日本になかった、外国風に生ビールを飲ませる店を作ろうとして計画されたのがビヤホール。 アルファベット文字を使用した看板をデザインする際、左にBEERの4文字、中央部分に会社のマーク、その右に店名を入れることが決まりました。 そしてBEERの4文字とバランスのいい4文字の英語ということで、HALLという単語が選ばれたそうです。看板のデザインありきの名前だったんですね。 開店とともに恵比寿ビヤホールは大繁盛。1899(明治32)年9月21日の読売新聞朝刊記事「ビーヤホール一雨毎に増加す」には、 “新橋に恵比寿ビールのビーヤホールを開店して大當(おおあた)りなりしより處々(ところどころ)にビーヤホールの起らんとする” とあり、東京に次々とビヤホールが開店しブームが巻き起こったことを報じています。 ビヤホールブームの理由(一) とりあえずビールとコレラ対策 なぜビヤホールがブームとなったのか?その理由は「とりあえずビール」が飲めるという、コンセプトの新しさにありました。 恵比寿ビヤホール以前にも、銀座の函館屋、浅草の神谷バー(当時の名は「みかはや銘酒店」 )など、洋酒の一杯売りをする店はありましたが、冷えた生ビールをとりあえず一杯、という常設店は皆無に等しかったのです。 もう一つの理由は、コレラ対策です。 幕末から明治時代にかけての日本では、コレラを代表とする疫病が度々流行しました。人々は疫病を恐れ、外出先では真夏でも殺菌された熱い飲料、甘酒や飴湯を飲みました。 そんな明治時代において「冷たい救世主」となったのが、ラムネとビヤホールの生ビール。 1886(明治19)年、とある新聞が「ガス入り飲料をのむとコレラにかからない」 という記事を載せたことから、コレラ予防に効くとラムネがブームに。 ラムネブーム後に出された広告(画像:近代食文化研究会) これは1892(明治25年)のラムネ広告。「宮内庁御用」「蒸留水」といううたい文句で安全性をアピールしています。 ビールもラムネと同じく、コレラに効くという炭酸ガス入り。しかも工場直送樽生ビールの安全性と品質は、ビール会社のお墨付き。コレラを気にせず飲める冷たい飲料として、ビヤホールのビールは人気となったのです。 ビヤホールブームの理由(二) お気軽西洋一品料理 1902(明治35)年の平出鏗二郎著『東京風俗志 中』によると、ビヤホールには「お手輕西洋一品」という看板がかかっていたそうです。 当時のビヤホール広告(画像:近代食文化研究会) これは当時のビヤホールの広告ですが、「一品西洋御料理」の文字があります。 一品西洋料理とはどういう意味かというと、「フルコースを頼まなくても、一品だけでも注文可能」という意味です。 東京の西洋料理は、精養軒や帝国ホテルなどにおける高級料理としてはじまりました。そのような高級店においては、高いお金を出してフルコースを食べることが一般的だったのです。 庶民にとってハードルが高かった西洋料理。そこにビヤホールが「一品西洋料理」の看板を掲げ、カツレツ一皿だけでも、カレー一皿だけでもOKですよ、とアピールしたのです。 ハイカラな西洋料理がお手軽に楽しめる。そんな店としても、ビヤホールは人気となったのです。 カフェーブームとビヤホール 明治時代末になると、ビヤホールにライバルが現れます。カフェーです。 現在のカフェとは異なり、当時のカフェー商売はビールなどの洋酒の一杯売りが中心。さらにはカツレツやカレーなどの一品料理も出していました。このようにビヤホールとの共通点が多いカフェーが、ブームとなったのです。 実際のところ、カフェーは女給をおくようになったビヤホール、ビヤホールの延長線上にできた店がカフェーであったともいえるのです。 女給が評判をよびブームとなったカフェー『大東京寫眞帖』より(画像:国立国会図書館ウェブサイト) 「メイドカフェブームの原点は上野にあり!? 115年前の博覧会とは」に書いたように、日本初の女給をアピールするカフェー、1909(明治42)年開店のカフェー・シンバシは、精養軒が恵比寿ビヤホールを買収してできた店。 そしてカフェー・シンバシの発展形として生まれた銀座のカフェー・ライオンも、ビヤホールとしての性格を持っており、恵比寿ビールを売り物としていました。 カフェーの変質と ビヤホールライオンの誕生 カフェーブームを牽引したカフェー・ライオンですが、関東大震災後に女給のお色気を売りにするカフェー・タイガーが銀座に進出し、その人気に陰りが出ます。 単に女性が給仕するだけ、お色気サービスのない上品なカフェー・ライオンは衰退。カフェーは次第に、高額なチップで女給がお色気サービスをするいわゆる「水商売」へとその性格を変えていきます。 やがて経営が傾いたカフェー・ライオンは大日本麦酒に買収され、ビヤホールへと改装されます。カフェーがビヤホールに先祖返りしたわけです。 このカフェー・ライオンが先祖返りしたビヤホールこそが、ビヤホールライオン。 そして「水商売」へと変質した銀座のカフェーの遺伝子は現在、銀座のクラブへと引き継がれているのです。 参考:『串かつの戦前史』
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