父島、母島、兄島……小笠原諸島にはなぜ「家族っぽい」名前の島が多いのか
小笠原諸島の父島と母島周辺にはなぜか、兄島、妹島など「家族っぽい」名前の島が多く存在しています。いったいなぜでしょうか。フリーライターの大島とおるさんが解説します。弟から嫁までバリエーション豊かな名前 東京都に属する小笠原諸島は、日本の最東端である南鳥島と最南端の沖ノ鳥島を含む30あまりの島から成っています。そのうち、父島と母島には計3000人超の住民が暮らしています。 そんな小笠原諸島のナゾといえば、何といっても島の名前でしょう。父島や母島の周囲には、 ・兄島 ・弟島 ・姉島 ・妹島 ・姪島 ・嫁島 ・聟島(むこじま) ・媒島(なこうどじま) といった名前の島々があります。 なぜこのように「家族っぽい」名前になっているのでしょうか。残念ながらインターネット上にはその由来は載っていません。こうなると、ますますその理由が気になるというものです。 曖昧な歴史が多い小笠原諸島 小笠原諸島は、人類が長らく到達することのなかった島でした。 父島(画像:東京都環境局) 1543(天文12)年、スペインの探検家であるルイ・ロペス・デ・ビリャロボスが火山列島を発見したとき、母島に到達したとする説がありますが、確かな証拠はありません。 その後、1593(文禄2)年に徳川家の家臣だった小笠原貞頼(さだより)が南海探検に向かい、三つの無人島を発見。これが小笠原諸島の発見とされています。 現在も父島には貞頼を祭る小笠原神社がありますが、この発見は後世になって記述されたもので信ぴょう性はまったくありません。 1675年に上陸した探検隊1675年に上陸した探検隊 信頼のおける記録は、1639(寛永16)年にオランダ東インド会社の船が父島と母島に推定される島を発見したことや、1670(寛文10)年に阿波国のみかん船が母島に漂着し、生還の後に報告したものなどがあります。 母島(画像:写真AC) 後者の報告を受けて幕府は1675(延宝3)年、武士団「松浦党」の島谷市左衛門を探検に向かわせています。このときに探検隊一行は、「此島大日本之内也」という石碑を建てたとされています。 またこれ以降、無人の島々は無人島(ぶにんじま)と呼ばれるようになりました。 貞頼発見説が有名になったワケ その後は放置されていた無人島ですが、1727(亨保12)年に動きがあります。 小笠原貞頼の子孫(ひ孫)と称する小笠原貞任(さだとう)なる人物が、「かつて祖先が家康公より南方で島を発見した場合には領土して与えることを約束されていた」として、無人島の領有権を訴え出るのです。 このときに貞任は『巽無人島記(たつみぶにんじまき)』なる資料をもとにした『辰巳無人島訴状並口上留書』を提出します。 一時は渡航の許可を出した幕府ですが、貞任が根拠とした『巽無人島記』は、オットセイが住んでいるなど、既に幕府が行った探検とは記述が大きく異なります。 結局『巽無人島記』は真っ赤な偽物と断定され、関わりを恐れた小倉藩主の小笠原宗家からも係累(けいるい)であることを否定された貞任は、財産没収の上、追放の刑罰に処せられました。 ところが皮肉なことにこの騒動を経て、小笠原貞頼が島を発見したという説は次第に知られていくようになります。 欧米諸国に目を付けられた小笠原諸島欧米諸国に目を付けられた小笠原諸島 その後、江戸幕府後期の学者・林子平が記した地理書『三国通覧図説』でも島は「無人島之図」として紹介されています。 林子平は日本における海防の重要性を主張し、後に幕府に弾圧された人物として知られています。しかし林が予見したように、19世紀になると欧米諸国は貿易や捕鯨のために小笠原諸島の重要性に気づき始めていました。 1830(天保元)年には、欧米人と太平洋の島々の人々が開拓民として父島に移住します。 その後、1853(嘉永6)年にペリー一行が島に立ち寄ったことが明らかになると、幕府はこの島の重要性に気づき、領有権を主張していくことになります。 そして1862(文久2)年。幕府はアメリカから帰ってきたばかりの咸臨丸(かんりんまる)に外国奉行・水野忠徳らを載せて派遣し、既に住んでいた開拓民らに日本領であることを同意を得て測量調査を行いました。 幕府が1861年に咸臨丸を小笠原島に派遣したころの父島。小笠原嶋図絵より(画像:小笠原村) その後、明治時代になると日本からも開拓民の入植が始まり、1880(明治13)年には、東京府の管轄となりました。 戦後には、アメリカの統治下に置かれることもありましたが、1968(昭和43)年に日本に返還され現在に至っています。 「家族っぽい」名前の命名は幕末「家族っぽい」名前の命名は幕末 このような歴史のなかで、「家族っぽい」名前が命名されたのはいつだったのでしょうか。小笠原村役場に尋ねたところ、命名は幕末だといいます。 江戸時代末期の幕臣・水野忠徳(ただのり)が調査後に幕府に提出した復命書の中に 「あたかも、一つの家族のように見える」 という理由で、それぞれの島を名付けたとあります。 この調査に医師兼絵師として参加した美濃大垣藩士の宮本元道は、調査団や島民、島の人々の様子などを『小笠原島真景図』としてまとめています。 ここからも、この時代には既に「小笠原諸島」の名はある程度定着しており、そこに調査団が個別の島の名前を付けていったことがわかります。なお『小笠原島真景図』は、国会図書館がインターネット上で公開しています。 『小笠原島真景図』(画像:国立国会図書館デジタルコレクション) なお、長らく有史以来の無人島と考えられてきた小笠原諸島ですが、現在では2000年ほど前に定住していた人々がいることが遺跡調査から明らかになっています。このことからも、むしろ「無人島」と呼ばれていた歴史のほうが短いのかも知れません。
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