江戸時代の天ぷらは”メッキ”をしていた!? 衣と天つゆが変わった理由に迫る
江戸時代の天ぷらは、衣の小麦粉、天つゆ、タネの魚介類にいたるまで、様々な点において現在の天ぷらとは異なっていたようです。銀座の老舗天ぷら店天國(てんくに)の二代目店主、露木米太郎の話などをもとに、食文化史研究家の近代食文化研究会さんが江戸時代の天ぷらについて解説します。地域、時代によって異なっていた天ぷらの衣天ぷら(画像:photo AC)”大正十二年頃までは東京では、浅草流と銀座流の揚げ方がはっきりわかれていて、職人の揚げ方を見て、「ああこいつは浅草流だよ」とか「この野郎は銀座で育ったな」というようなことが一目でわかったものです。” そう語るのは銀座の老舗天ぷら店、1885(明治18)年創業の天國(てんくに)二代目主人、露木米太郎(『天麩羅物語』1971年刊)。 百年以上の歴史を持つ銀座の老舗「天國」(画像:近代食文化研究会)天國名物 昔ながらの黒い東京風天丼(画像:近代食文化研究会)大正時代以前は天ぷらにも地域による違いがあり、浅草流の天ぷらは白くて厚い衣、銀座の天ぷらは薄くて茶色だったそうです。 露木米太郎によると、時代によって衣の質も変わったとのこと。 明治中期までの衣は、水車で挽いた国産の中力粉を使っていました。その後製粉会社がアメリカから小麦を輸入して薄力粉を作るようになってから、天ぷらはもっぱら薄力粉を使うようになります。 水車は製粉に使われていた(画像:photo AC) 江戸時代の天ぷらの衣は「サクッ」ではなく「ザクッ」グルテンの少ない薄力粉で作った天ぷらの衣は、サクッとしたクリスピーな食感になります。この食感が好まれたため、明治後期以降の天ぷらは薄力粉を使うようになりました。 一方、国産の小麦を使った小麦粉は、グルテンの含有量がやや多い中力粉。薄力粉の衣と比較すると、ネチョ、モチッとした衣の食感になります。 それでは明治中期以前の天ぷらの衣がネチョ、モチッとしていたかというと、江戸時代にかんしてはそうともいえないのです。 小麦粉は臼で挽いた後に篩(ふるい)にかけて、小さな粒をよりわけ、篩にひっかかった大きな粒は再度臼で挽きます。 明治時代の篩は絹布を使用していました。絹布の隙間を通り抜けた粒ですから、かなり細かい粒になります。 『日本製粉社史 : 近代製粉120年の軌跡』(日本製粉株式会社編・2001年刊)によると幕末の篩は竹でできていました。つまり竹ざるです。 竹ざる(画像:photo AC)竹の篩の目は絹布の隙間よりも大きいので、幕末までの小麦粉の粒は現在よりもかなり大きかったと思われます。肉眼で確認できるほどの大きさだったのではないでしょうか。 江戸時代の天ぷらの衣の食感は、小麦粉の大きな粒が歯に当たる「ザクッ」としたものではなかったかと推測します。 かつての小麦粉には独特の香りがあったかつての小麦粉には独特の香りがあった明治中期まで使用されてた水車引きの粉には、独特の香りがありました。 小麦というのはふすま、胚芽、胚乳から構成されます。米でいうとそれぞれ糠、胚芽、白米にあたります。 玄米は臼でつくと糠と胚芽が取れますが、小麦の胚乳、つまりでんぷん質とふすまや胚芽を完全に分離するためには、ローラーミルやピュリファイヤーといった西洋の機械が必要になります。これらが日本に導入されるのは明治時代半ば以降です。 水車で挽いていた小麦粉には、どうしてもふすまや胚芽が混入することとなります。なので、明治中期以前の小麦粉は、ふすまや胚芽の香りがしたのです。 小麦のふすま.(画像:photo AC)江戸時代の天ぷら油はごま油、天つゆは醤油に砂糖再び露木米太郎によると、明治時代まで天ぷらはごま油のみで揚げていたそうです。 大正時代にごま油の値段が高騰したことと、昭和時代に入って東京で関西料理がブームとなり薄味が好まれるようになったため、次第にサラダ油(綿実油や大豆油)をごま油に混ぜたり、サラダ油のみで揚げるようになったそうです。 天つゆの味も、現在とは違っていました。 現在の天つゆは醤油とみりんを使いますが、これはかなり新しい習慣。 露木米太郎の『天麩羅物語』には家庭用の天つゆのレシピが掲載されていますが、その配合は醤油一合に対し砂糖40グラム。みりんまたは酒が盃(さかずき)一杯となっています。 『天麩羅物語』が出版された1971(昭和46)年ごろの天つゆは醤油に砂糖が基本。みりんは入れなくてもよく、入れたとしても隠し味程度だったのです。 江戸時代の天つゆもやはり、砂糖を使っていました。 19世紀の三都の風俗を描いた喜多川守貞の『守貞漫稿(もりさだまんこう)』によると、砂糖は”料理蕎麦店天ぷら用”に”これ用いること甚(はなはだ)し”とあります。天つゆやそばつゆには砂糖を使っていたのです。 一方、『守貞漫稿』によるとみりんは、高価なうなぎの蒲焼や料理茶屋(高級料亭)で使われる高級調味料。庶民的な天ぷらやそばには使用されなかったのです。 子供のおやつだった江戸時代の天ぷら山東京伝ほか3名著『職人尽絵詞』より、鍬形蕙斎(くわがたけいさい)「屋台で天ぷらを食べる子供の図」(画像:国立国会図書館ウェブサイト) )この絵は江戸時代の天ぷら屋台。子供が立食いしています。 江戸時代の屋台の天ぷらは、子供がおやつに食べるような、値段の安い食べ物でした。 ここで気になるのは、砂糖の種類です。 19世紀の江戸においては、砂糖が日常的に使われていました。江戸っ子の砂糖好きは有名で、 七草粥にも砂糖をかけていたぐらいです(喜田川守貞(季荘)編著『守貞漫稿』)。 とはいえ、現在よりも砂糖は高価なものでした。子供のおやつであった天ぷらに、輸入物や讃岐の高級白砂糖を使っていたとは思えません。 おそらく、安い黒砂糖を使っていたのではないでしょうか。だとすれば天つゆは、黒砂糖の尖った味と香りのする、かなり癖の強い味であったと思います。 江戸時代の天ぷらは”メッキ”されていた昔は金メッキ、銀メッキなどのことを「天ぷら」ともいいました。 ”昔は天ぷらそのものが、いわゆる下手物(げでもの)として扱われていたためタネの魚の鮮度に重点を置いていませんでした。魚河岸へおそく出かけて行き、魚河岸引け、いわゆる売れ残りの魚を安く仕入れてきて、それを粉と油で「メッキ」してたんです。”(露木米太郎『天麩羅物語』) 安い中身を、衣をつけて立派に見せることから、メッキのことを天ぷらといったのです。 現在、メッキのことを天ぷらと呼ぶ習慣はなくなりました。冷蔵冷凍技術の発達により、天ぷらのタネが新鮮なものになったからです。 新鮮な素材の味をいかすため、天ぷらの衣は薄く、油の香りは抑えめに。そして天つゆではなく塩で食べるようになりました。 江戸時代の屋台天ぷらは、おやつに子供が食べるようなB級グルメ。タネに新鮮な高級品を使っていたとは思えません。 安い魚介類を、小麦粉のふすまの香り、ごま油の香り、黒砂糖の香りで厚くメッキして食べていたのではないでしょうか。
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