伊豆諸島「新島」に眠る知られざる廃道と旧道――東京都道211号線若郷新島港線を訪ねる
伊豆七島の新島にある廃道となった都道について、都市探検家の黒沢永紀さんが解説します。新島とは何か 伊豆七島の本州寄りに位置する新島は、大海原に囲まれた離島ゆえに、つい東京都であることを忘れがちです。 渋谷駅前に鎮座するモヤイ像発祥の地でもあり、くさやでも知られる新島。そんな島の北東部に、島民ですらほとんど訪れない、かつての都道の跡がひっそりと眠っています。今回は、大自然の離島に佇む廃道の話です。 新島は東京から南に約150km、南北11.5km、東西3.2kmの縦長な島です。島のほぼ中央の窪地に空港があり、その西側に隣接して島内最大の集落である「本村(ほんそん)」があります。 新島内最大の集落「本村」の様子(画像:写真AC) 縄文時代にはすでに人がいたようですが、江戸時代には流刑の島として多くの罪人が流されました。白砂で囲まれた流人の墓は、新島ならではのものでしょう。 江戸中期の1703(元禄16)年。島を襲った大地震によって、本村の北部が崖崩れによる被害を被り、生き残った住民が島の北端へ移住してできたのが、現在も人が住む集落の「若郷(わかごう)」でした。 新島にはこの本村と若郷の2集落しかなく、いずれも島の西側の海岸沿いに位置します。久しく、本村と若郷の交通は不便を極めていましたが、それを打開すべく最初に建設された車道が、今回訪れる都道211号「若郷新島港線」です。 若郷新島港線の建設秘話若郷新島港線の建設秘話 1961(昭和36)年前後に、幾度かにわたって建設された若郷新島港線(以降「若郷線」)。その工事に当たったのが、陸上自衛隊の建設部隊でした。なぜ陸自が道路の建設に? そこには、資金の乏しい離島のインフラ整備に漬け込んだ、バーターの取引があったからでした。 そのバーターとは、国内初のミサイル試射場の建設計画です。本村での基本的な合意は得たものの、住民には反対派も多く、誘致派と反対派、さらには陸自上陸の阻止など、騒然とした一幕もあったといいます。 結局、ミサイル試射場は建設され、それに併せて若郷線も完成。試射場では実際に幾度かの発射試験も行われましたが、やがてその役割を終え、現在は防衛省技術研究本部航空装備研究所新島支所(新島村水尻)として使われています。 若郷線は本村から若郷まで、島の東側をぐるっと迂回しながら、山肌の中腹を縦走する形で建設されました。しかし、新島のそそり立つ山肌は極めて脆く、崖崩れをはじめとした自然災害が頻発。1日も早い善処が望まれ、その結果造られたのが、1990(平成2)年竣工の「新島トンネル」でした。 廃道誕生の経緯 新島トンネルは、道程のほぼ真ん中付近に、かつて陸自が建造した山肌中腹の道と並行するように山中を掘削して造られました。これによって、従来山肌に沿って走っていた道がまず放棄されます。 さらに2000(平成12)年の新島近海地震で、本村から新島トンネルまでの区間も土砂崩れにより閉鎖。急遽造られたのが、海岸線に沿って走る村道から新島トンネルへ繋ぐ急峻な坂道でした。しばらくは、この村道から急峻な坂を経由して新島トンネルを通過し、島の北部へと移動していたようです。 しかし将来的な自然災害を危惧して、より強固なトンネルの建設に着工。そして2003(平成15)年に完成したのが、現在も使われている「平成新島トンネル」でした。平成新島トンネルは3km弱もある長大なトンネルで、国内の離島トンネルとしては最長です。 このトンネルの完成によって、新島トンネルはわずか10年余でその役目を終え、同時に村道から新島トンネルへと続く急峻な坂道も廃道となりました。 道路トンネルとしては奇妙な形をした「新島トンネル」の坑門(画像:黒沢永紀) ただし、平成新島トンネルは自動車専用なので、歩行者および自転車は通行できないため、現在でも坂道と新島トンネルは、徒歩および自転車の利用者のために、通行可能な状態になっています。ですので、このルートは廃道ではなく旧道ということになるのでしょうか。 若郷新島港線を歩く若郷新島港線を歩く そんな知られざる背景と新島の過酷な自然環境を物語る、旧若郷線を探索してみようと思います。 探索のスタート地点は、海岸線の村道から新島トンネルへと繋がる急峻な坂道の麓。新島トンネルへと続く坂道は、いわゆるベタ踏み坂の印象で、突貫工事で完成させたことがうかがえます。 村道から中腹の新島トンネルまでを繋ぐ急峻な坂道(画像:黒沢永紀) かなり急な坂道を登りきると、トンネルの坑門(出入口)へたどり着き、その反対側には、新島近海地震で通行止めになった、旧若郷線の路面が続いています。 まずは、トンネルと反対側の土砂崩れで閉鎖された道へ。と言っても土砂崩れの箇所はかなり本村寄りなので、新島トンネルからしばらくは歩行可能な路面が続きます。ちなみに、自動車道の路面はアスファルトが一般的ですが、新島の路面はコンクリート製。とても頑丈な印象を受けます。 しばらく歩くとやがてたどり着くのが「吹上げ洞門(どうもん)」。洞門とは、崖沿いの道に施工される、雪崩や土砂崩れから道を守るトンネルに似た構造物で、谷側が開放的に造られているのが一般的です。覆道とかシェッドともいわれ、箱根駅伝の函嶺洞門でご存知の方も多いことでしょう。 土砂に埋もれた洞門の出口 吹上げ洞門はコンクリート製で、谷側にはトップが台形をした縦長の窓が並ぶ100m程の洞門です。しっかりと造られた洞門であることを証明するかのように、今でも車の通行になんら支障がないと思われるほどに綺麗な状態です。しかし、洞門の出口付近まで来ると、道に土砂が流れ込んで植物が育ち、さらに洞門の出口から先は完全に土砂に埋もれて、続くはずの自動車道がまったく見えません。 土砂が流れ込んで植物が生育する「吹上げ洞門」の内部(画像:黒沢永紀) これを見た工事関係者は、もっと長い距離の洞門を造っておけばよかったと思うことでしょう。整備された道しか走っていないとわかりませんが、土砂に埋もれた道路の痕跡を見ると、改めて自然の脅威と災害復旧の苦労を実感します。 洞門を引き返して新島トンネルまで戻り、今度はトンネルの先へ進みます。このトンネルは、前述のように1990(平成2)年に竣工した比較的新しいトンネルなので、洞門と同じように傷みも少なく、照明さえあれば現役のトンネルと言われてもおかしくないコンディションだと思います。 トンネルを抜けると、道は二股に分かれ、直進は北部の若郷へ通じる道、そして右へ曲がる道が、新島トンネル竣工前の、すなわち陸自が最初に敷いた山肌沿いの道への入口です。 自然の猛威を体感する崖崩れで寸断された道自然の猛威を体感する崖崩れで寸断された道 右折して道路を進むと、ほどなくしてびっしりと並べられた巨大な土嚢が現れ、完全に通行止めの様相を呈します。なぜ大量の土嚢が並んでいるのか。それは、土嚢を越えるとすぐにわかりました。 土嚢の終着点の先には路面がありません。大きな崖崩れによって、道路が基礎の土砂ごと、完全に削り取られている状態です。かなり急傾斜な山肌にがれきが散乱する様子もまた、自然の猛威を目の当たりに実感する光景です。 道が途切れた地点から前方を眺めると、遥か遠くに、暴力的に切断された道路の寸断面と、その下の剥き出しになった土砂がよく見えます。崖崩れのガレ場(大小の岩が散乱、堆積している場所)を慎重に進み、なんとか寸断された路面までたどり着くとまるでご褒美のように、太平洋の大海原を眼下に見下ろす絶景が広がります。かつてこの道が使われていたときは、車を止めて、爽快な光景にホッと一息ついた人もたくさんいることでしょう。 雑草に埋没していく路面(画像:黒沢永紀) しばらく続く絶景道路の途中には、陸自が建立した「吹上げの坂」の碑があります。訪れた日はほぼ無風でしたが、そそり立つ新島の崖を伝って吹き上げる冬場の風は、きっと半端ないのでしょう。路面には、巨大な落石がいくつも散乱していました。絶景とは、自然の猛威と表裏一体であることを教えてくれます。 そして碑を越えたあたりから、徐々に道が草の中へと消えてしまいます。崖崩れほどではないものの、軽い土砂崩れによって路面の上に堆積した土を土壌に、背の高い雑草が生い茂っているためです。 身長よりも高く、前方が見えないくらい植物が生育した場所を、足の感触とGPSを頼りに進むことを「藪漕ぎ」といいます。道を歩いている実感がわかないことや、力強く育った植物の葉で肌を切ったり、虫の襲撃に遭遇するなど、藪漕ぎは廃道歩きの中でも、もっとも過酷な行為といえるでしょう。 ところどころに顔を出すアスファルトの路面に安堵しながら藪漕ぎを続けること約1時間。やがて、探索をスタートした新島トンネンの南側の出入口の横へ突然躍り出て、ホッと一安心。 わずか2km程度の行程ですが、洞門やトンネル、そして崖崩れや草没する路面など、道路の様々な様相がコンパクトに凝縮された若郷新島港線。自然の猛威に晒されながら徐々にバージョンアップされ、かつての道路は、秘められた歴史と完成時の喜びを封じ込めながら、ひっそりと風化の時を待っているかのようでした。実際に訪れることは、あまりお勧めしませんが、改めて東京の奥深さを実感します。
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