水道橋駅から徒歩5分 「街角の公園」のルーツがあった 開園から90年間、今も変わらぬそのたたずまいとは?

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水道橋駅から徒歩5分 「街角の公園」のルーツがあった 開園から90年間、今も変わらぬそのたたずまいとは?

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黒沢永紀

都市探検家・軍艦島伝道師

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水道橋から徒歩5分ほどの場所に、現在国内にある「小公園」の原点のひとつとなる公園があるといいます。その公園にはいったいどのような歴史があるのでしょうか。都市探検家・軍艦島伝道師の黒沢永紀さんが解説します。

1923年の関東大震災で一変した東京の街並み

 JR水道橋駅の東口からドームシティの喧騒を横目に、外堀通りを御茶ノ水方面へ歩くこと約5分。ほどなくして道の左側に、鬱蒼と茂る木々に囲まれた公園が現れます。幾何学的な装飾の門柱やアーチ型の壁泉など、ちょっと風変わりな公園は、今から約90年前に造られた「元町公園」(文京区本郷)です。実は、この公園は、現在国内にあまたある「小公園」の原点のひとつだったのです。今回は、都市公園の歴史を遡ってみたいと思います。

外堀通りに面する元町公園の正面入口(画像:黒沢永紀)



 公園――。誰もがよく知っており、よく利用するものだと思いますが、その種類は千差万別です。噴水や広大な広場を併設した大規模公園から、国立公園のような自然を保護するもの、動植物の生態を観察できる動物公園や植物公園、城などの周囲を公園化した史跡公園、さらには交通公園や臨海公園など、じつにさまざまな公園があります。しかし、もっとも馴染み深いのは、街角によくある遊具を併設した小公園ではないでしょうか。

 1923(大正12)年の9月に起きた関東大震災で、東京右半分を中心に、関東一円は壊滅的な打撃を受けました。一日も早い復興を目指して始動したのが「帝都復興計画」です。土地の区画整理から道路や橋梁、上下水道や電気瓦斯(ガス)といったあらゆるインフラ、学校をはじめとした教育施設、食堂や職安などの厚生福祉施設など、ほぼ都市機能のすべてが復興の対象となりました。

東京には面積の狭い公園が多い

 公園の整備もそのひとつです。震災後わずか数年で、3か所の大公園と52か所の小公園が造られました。震災前に38か所だったものが105か所になり、一気に2.5倍に。この数には、復興事業として造られた公園以外に、芝離宮や上野などの下賜(かし。身分の高い人から与えられた)された公園や、清澄庭園などの寄付された公園も含まれます。

洗い出し人造石の風合いを生かして再生されたカスケード(画像:黒沢永紀)

 2019年現在、東京にある公園は8000余で、その数は全国でもダントツ1位です。しかし、その合計面積はというと、ダントツ最下位の47位。つまり、東京には面積の狭い公園が多いことがわかります。この面積の狭い公園、すなわち昭和の時代に児童公園と呼ばれた街区公園こそ、震災復興で造られた52か所の小公園を基本として、その後造り続けられたものだったのです。

 現在は、街角のあらゆるところに設置されている小公園。しかし当初の復興小公園は、基本的に小中学校に隣接して造られました。狭い校庭を補う教育のスペース、罹災時の避難場所、そして地域コミュニティの中心地、という役割を担ったのがこの復興小公園でした。

“帝国の未来を担う子ども”の育成が背景に

 火事を前提とした町づくりが行われた江戸時代、町角には必ず防火エリアとしての広場が設けられていました。しかし、維新以降の近代化で、いつのまにか広場を造ることを忘れてしまった結果、関東大震災では、地震被害よりも延焼被害が大きいという結果を生み出してしまいました。小公園は、この反省の意味も込められていたのです。

アール・デコ様式の噴水口が時代を伝える階段正面の壁泉(画像:黒沢永紀)



 また、公園には指導員がいたといいます。今では指導員がいなくても当たり前のように誰もが使う小公園ですが、この当時、小公園をより効果的に使うために、多くの指導員を配置していたというから驚きです。

 児童遊具を併設した小公園ができる以前、多くの子どもは路地で遊んでいました。不衛生さと危険を併せ持つ路地では、怪我をしたり、時には不良化することも懸念されていたようです。小公園に指導員を置くことで、学校以外の場所でも、健全な児童の育成、ひいては“帝国の未来を担う子ども”を育てるという目的が、指導員配置の裏にはあったともいわれます。

歴史的価値により、急遽改築案を見直しに

 残念ながら、52か所に造られた復興小公園は、そのほとんどが解体転用されたり、また造りかえられたりしてしまいました。そんな中で、この元町公園が唯一、1930(昭和5)年の開園時の記憶を今に伝えています。

開園時の姿を伝える藤棚。園内には何か所かの藤棚があり、集会時の演壇などにも使われた(画像:黒沢永紀)

 昭和50年代の後半に、老朽化の進行と障がい者用のスロープ設置の要望から、大規模な改築計画が持ち上がりました。そのもっとも大きなテーマは、近代的な明るい公園への改装。つまり、元々の姿とはまったく違う公園に生まれ変わる予定だったのです。

 折しも朝日新聞に、元町公園の歴史的価値を伝える東大教授の記事が掲載され、それを読んだ当時の改築の担当者が、都内に残る唯一の復興公園と知り、急遽改築案を見直すことに。すでにおおかたの設計が決まっていたのを押しのけての、復元案への路線変更だったようです。

カスケードは、表現主義を反映したデザインに

 復元改修は、開園時の写真や図面を元に進められました。ベンチや階段、藤棚や滑り台など、遺っているものはなるべく生かしつつ補修程度にとどめ、不明瞭なところは下手な改装をしないで手を付けず、なるべく原型に忠実に再現されたとのこと。

児童遊具を併設した公園の原点を今に伝える双頭型の滑り台(画像:黒沢永紀)



 外堀通り沿いの正面の入口から見ると、まず左右に幾何学的な造形の門柱があり、その奥に階段が続きます。階段を登りきると壁泉があり、中央のアーチ型の凹みの上部には、アール・デコ様式の逆三角を重ねた噴水口が施工されています。

 壁泉の左右には、さらに登り階段が続き、左の階段を登りきると公園一のハイライト、カスケード(斜面を段状に施行して流水させる装置)が見えてきます。幅の広い階段の中央に4段に造られたカスケードは、特に初期の復興小学校で取り入れられた、「表現主義」という建築装飾の流れを反映したデザインです。損傷が激しかったものの、完全な造りかえはせず、なるべく元の躯体(くたい。建物の構造を支える骨組み)を生かして補修されています。カスケードには着色された人造石も使われていますが、これも綿密な考証の末の改修だったようです。

 藤のつるが守ったおかげか、藤棚の石柱は意外に痛みが少なく、ほぼそのままの状態だとか。柱の上部に施された3段の蛇腹装飾が、時代の香りを今に伝えています。

 復元時に、南西の角の石柱の上にあった鷲の彫像(創建当時のものかどうかは不明)も、石柱の改修後にそのまま同じ位置に設置し直され、公園の中ではひときわ目を引く存在です。鷲もまた昭和初期に多用されたモチーフのひとつでした。また、公園の奥、すなわち北寄りには、ほぼ開園当時の姿をとどめる双頭の滑り台も遺っています。

ほぼ開園時の姿で残るのは、元町公園だけ

 この改修時に加えられた大幅な変更は、当初の改修目的のひとつだった障がい者用のスロープが設けられたこと、戦時供出で失われていた鋳鉄製の外柵が工期の都合で復元できなかったこと、壁泉の上部に、壁泉と共通したアーチ型の装飾のある壁を土砂止めとして施工したこと、隣接する本町小学校との間に、開園時にはなかったフェンスが安全上の理由から設置されたことなどで、それ以外はほぼ開園当時の姿に復元されています。

南西の角にあって一際目を引く鷲の彫像(画像:黒沢永紀)

 元町公園以外には、元加賀公園(江東区白河)など、数か所の公園に復興小公園時代の名残を見ることができますが、ほぼ開園時の姿で残るのは、この元町公園だけ。当時の公園に対する期待や今とはまったく違う目的、そして時代を伝えるデザインとともに、街区公園の黎明期を伝える貴重な遺産として、ぜひ後世へ残してもらいたいです。

 ドームシティへお出かけの際は、ちょっと寄り道して90年前へ時間旅行ができるタイムマシンに乗ってみるのはいかがでしょうか。

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