全長100m超! 都内有数の「巨大古墳」が東京タワー付近にあるのをご存じか

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全長100m超! 都内有数の「巨大古墳」が東京タワー付近にあるのをご存じか

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永嶋信晴

歴史ライター

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およそ1500年前に造られた「古墳」が、東京都内にも遺されています。しかもそのひとつは、東京タワーの過ぎ近くにあるというのだから驚きです。歴史ライターの永嶋信晴さんが案内します。

知る人ぞ知る、都心ど真ん中の巨大古墳

 先日NHKのブラタモリで、NHK放送センター(渋谷区神南)のある場所に「前方後円墳」があったと放送していました。よく知っている場所に、かつて巨大な古墳があったという事実にびっくりしましたが、都内には意外と知られていない古墳も少なくありません。

 中でも、都心のど真ん中に長さ100メートルを超える古墳があると聞いて、驚く人も多いのではないでしょうか。

 それは、東京都港区の芝公園内にある「芝丸山古墳」です。

東京タワーのすぐ近く、芝公園の中にある「芝丸山古墳」を巡る(画像:永嶋信晴)



 付近には東京タワーや増上寺など1級の観光スポットがあるためか、そちらに注目が集まって意外に知られていない存在です。緑深い芝公園の中にあって、公園の築山みたいに風景に溶け込んでいるからかもしれません。

 古墳の前に立つ解説板には全長106mとありますが、築造された当時は110m以上あったと推測されています。ちなみに、同じ巨大古墳として知られる大田区田園調布の「亀甲山古墳」が全長107mで、同じ場所にある「宝来山古墳」が97.5m。

 上記三つの古墳が都内に残る古墳の全長ベスト3ですが、亀甲山古墳は柵で囲まれているため立ち入ることができません。宝来山古墳は上に登ることができますが、後円部と言われる部分の3分の2が削平されているなど、保存状況はあまりよいとは言えない状況です。

 それに対して芝丸山古墳は、都内の古墳の中では比較的形状がよく残っており、古墳の上に登ることもできるのです。

 観光スポットとしてのこの古墳の魅力は、何と言ってもアクセスの良さではないでしょうか。最寄り駅は都営地下鉄三田線の芝公園駅で、出口から古墳までの直線距離は約200m。都心観光として有名な東京タワーや増上寺、東京タワーの撮影スポットとして人気上昇中のプリンス芝公園だけ訪れて帰ってしまうのはもったいない。

 ということで今回は、歴史好きイチ押しの歴史スポット、芝丸山古墳を紹介したいと思います。

前方後円墳の形がしっかり確認できる

 芝公園駅から地上へ出ると、目の前に広がるのは芝公園。30年以上も前からよく来ているエリアですが、この周辺は、都内で最も変化した場所のひとつだと感じます。かなり昔になりますが、日比谷通りに立って古墳のある方向を眺めると、昼なお暗い森が広がり秘境感が満載でした。

 当時、インディージョーンズになった気分で、雑草を踏みしめながら芝丸山古墳を目指したことを思い出します。周りは喧騒(けんそう)あふれる大都会。真昼間なのに訪れる人はほとんどいません。途中、魔物が現れるのではないかと、キョロキョロ辺りをうかがいながら歩を進める姿は何とも滑稽(こっけい)でした。

 それが、何ということでしょう。

歩きやすい遊歩道が(画像:永嶋信晴)



 草ボーボーだった遊歩道がきちんと整備され、ヘンゼルとグレーテルが迷いそうだった森の木々が、せん定されて、明るい日差しが差し込んでいるではありませんか。

 古墳の真下にやってくると、公園の職員の人たちが、一生懸命雑草を刈っていました。きれいな状態を保つためには、普段から地道な努力が必要なのですね。 昔の姿を知っていたから「劇的ビフォーアフター」の感動を味わうことができて得した気分です。

 近くの解説板には「丸山貝塚」の表示があり、そこには、縄文時代中期から後期の貝塚と推測されているとあります。古墳は、貝塚の上に作られているのですか。現在は内陸部にポツンとある古墳に見えますが、作られた当時は周りに海が広がっていたのでしょう。

 雑草の刈り取り作業の邪魔をしないように、古墳の端に設置された石段を登ります。

 頂上には、前方後円墳の前方部がありました。古墳の上に立ち、下を見下ろすと、かなりの標高差を感じます。高さ16mにも及ぶ量の土を運び込むのは大変だったでしょうね。ただ後で調べてみると、戦国の城と同じように、台地の先端部を利用して作られたということが分かりました。

 前方後円墳の前方部から後円部に向けて歩いていくと、見事な「くびれ」が確認できます。

 江戸時代や戦後の土地開発で墳丘の一部が損なわれたと聞いていましたが、これだけオリジナルの形状が残っている古墳は貴重です。

前方後円墳とヤマト政権の深い関係

 芝丸山古墳は、前方後円墳だと述べました。それは、真上から見ると鍵穴の形をしている古墳。飛行機や気球などがなく、直接真上から眺めることが不可能だった時代、この不思議な形は、何を意味しているのでしょうか。

 残念ながら、前方後円墳がどうしてこの形になったのか、詳しいことは分かっていません。有力なのは、お墓が円形、祭壇が方形で、それらを組み合わせたデザインであるという考え方です。

 それは、亡くなった王は、円い天に葬られることによって神になり、跡継ぎの王は、四角い地の上に立って亡き王をまつることで支配者の地位を確立するという、古代中国の「天円地方」の考えに基づくという説。

 また、弥生時代から続く円形の墳丘墓の通路部分で祭祀(さいし)が行われ、その後この部分が死の世界と人間界をつなぐ橋として大型化したと考えられる説も有力らしい。

 ほかにも諸説ありますが、面白いのはこの不思議な形の古墳が西日本から東北地方まで広範囲に広がっていることです。前方後円墳が現れたのは現在の奈良県の大和地方で、3世紀の中頃。その中で、最も古くかつ最も大きいと言われるのが「箸墓古墳(はしはかこふん)」。邪馬台国の女王・卑弥呼のお墓だという説がありますね。

 前方後円墳は、最初に現れてから約100年で一気に東北地方まで波及したそうです。広範囲にわたって同じ形状の古墳が作られたのは、それぞれの地域の首長がヤマト政権に組み込まれたシンボルとして使われたからという説があります。

 先ほど述べた田園調布にあるふたつの古墳も前方後円墳で、この芝丸山古墳と同じ4世紀後半に作られたと考えられているそうです。少なくともその頃までには、この地域の首長はヤマト政権のメンバー入りをしていたのでしょう。

生い茂る草木と石段(画像:永嶋信晴)



 芝丸山古墳と田園調布の古墳を築いた人たちとの関係ですが、築かれた年代のタイムラグから、それぞれ芝から田園調布へ移った人たちによって作られた可能性があるとのこと。海の近くから多摩川の近くへ移住したのでしょうか。

 その理由について個人的には「さきたま古墳群」を作った北武蔵の人たちとの関係もあるのではないかと感じています。埼玉と東京にまつわる「リアル・翔んで埼玉」仮説ですが、長くなりそうなのでそれはまたいずれ。

芝丸山古墳、発見者は有名俳優にそっくり

 かつて後円部だったという広場も、見事な円形を確認できます。

広場は見事な円形(画像:永嶋信晴)



 ただ、ちょっと広すぎるし、しかもフラットすぎる気も……と思ったら、江戸時代に後円部の円頂部分が削り取られてしまったらしい。明治時代には数軒の茶店があり、展望広場みたいになっていたそうです。

 あとで調べてみると、江戸時代、古墳の上に増上寺の五重塔が建築される計画もあったとのこと。そのとき古墳時代の埋葬品が散逸してしまった可能性もあるようです。

 驚いたのが、ここが古墳であると分かったのが1893(明治26)年ということです。それまで、この丘が古墳だとは誰も思わなかったのでしょうか。

 ちなみに、芝丸山古墳の存在に初めて気づいたのが坪井正五郎です。日本初の人類学者であり、日本における考古学や人類学の普及と確立に尽力した人物と言われています。

 ネットで「坪井正五郎」を検索してみたら、なぜか俳優の「大泉洋」の写真が……。

 あらためてよく見ると、大泉洋に見えた写真が坪井正五郎だったのです。そっくりというより、同一人とも言えるレベル。ネットでも驚きのコメントを多数発見しました。

 それはともかく坪井正五郎は、自然地形とは考えられない不自然な高さに注目したようです。それで、これは「古墳だ」と主張したらしい。

 ところが、東京のど真ん中に巨大な古墳があるなんて、最初は誰も信じなかったそうです。富士塚とは考えなかったと思いますが、巨大寺院増上寺の築山の一部だと思ったのでしょうか。

 その後、埴輪(ハニワ)の一部などが発見され、古墳だと認定されます。都心のど真ん中にある巨大古墳のニュースが、世間から驚きを持って迎えられました。

昔の人が前方後円墳に気づかなかったワケ

 素人の私でさえ、一目でここが前方後円墳だと確認できたのに、誰も気づかなかったのは不思議ですね。

 でもよく考えてみたら、きちんと整備されている今だから古墳の形が分かるのです。以前のように、草がボーボーで、木が生い茂っていたら、気づかなかったのかもしれません。

 日々、古墳の草刈りをしていただいている人たちに、あらためて感謝するのでした。

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