江戸三大祭でおなじみ! 江東区「富岡八幡宮」が深川の総鎮守になったワケ

  • 門前仲町駅
江戸三大祭でおなじみ! 江東区「富岡八幡宮」が深川の総鎮守になったワケ

\ この記事を書いた人 /

県庁坂のぼるのプロフィール画像

県庁坂のぼる

フリーライター

ライターページへ

下町として広く知られる江東区「深川」。この地名の由来はいったい何でしょうか。フリーライターの県庁坂のぼるさんが解説します。

区名は人物の名字から?

 江東区の「深川」は都内でもよく知られた古い地名です。1878(明治11)年から、現在の区制になる1947(昭和22)年まで、深川区も設置されていました。

江東区富岡にある富岡八幡宮(画像:(C)Google)



 深川区の範囲は江戸の朱引(江戸の府内と府外の境界線)に含まれていました。すなわち、現在の江東区のうち旧深川区はすべて江戸だったのです。現在、深川の町名は深川1丁目と2丁目しかありませんが、俗に深川と呼ばれる地域がもっと広いのは、江戸時代に由来しています。

 さてこの深川という地名の由来ですが、人名とする説が広く知られています。江東区でもこの説を採用しており、区のサイト内の「江東区の地名由来」のページでは、

「慶長の初期(1596~1614)、江戸がまだ町づくりをはじめたばかりのころ、深川八郎右衛門という人が、摂津国(現・大阪府)から移住して、小名木川北岸一帯の開拓を行い、この深川の苗字を村名としたが、これがこの地一帯をよぶ名称となった。深川区の名はこれをうけたものである」

と記しています。

 また別の説では、徳川家康がこの辺りを巡視したとき、畑を耕していた農民に地名を尋ねたところ「地名はない」と答えたため、続けて農民の名前を聞いたら「深川八郎右衛門」と答えたので、地名が深川となったとされます。

 いずれにしても、深川という地名は深川八郎右衛門に由来するというのが大方の説として通用しています。

名字ではなく、土地の名前から?

 さて、この深川八郎右衛門が伊勢神宮の神様を祭ったことがルーツとされるのが、現在の深川神明宮(江東区森下)です。深川発祥の地を称するこの神社では、深川の由来について、

「「まだ住む人も少なく地名もない」と応えると、家康公は八郎右衛門の姓「深川」を地名とするよう命じました」

と、後者の説を採用しています。

江東区森下にある深川神明宮(画像:(C)Google)



 この深川神明宮の別当寺(神社に付属して置かれた寺院)で、八郎右衛門を開基とするのが国府台にある泉養寺(千葉県市川市)です。明治時代以前、日本では神仏習合が当たり前であり、神社の支配は寺が持ち、運営されていました。

 この泉養寺が1859(安政6)年に寺社奉行に差し出した由緒書によると、

「当所には地名はないが、小社があり、八郎右衛門がここを開発して慶長元(1596)年に深川という地名が出来、苗字を深川ととなえ、別当泉養寺は八郎右衛門が開基であり、弟が初代住職となり秀順と名乗った」

とあります。

 これによれば、最初に八郎右衛門がこの土地を開発して、その後に深川という地名ができ、それを八郎右衛門が名字にしたことがうかがえます。

 すなわち前述の「深川 = 名字由来」は正しくなく、深川を開発した人物が、開発した土地の地名を名字にしたというのが正しいでしょう。ただ、実際に家康から名字を拝領したかどうかは判然としません。

そもそも深川八郎右衛門とは何者か

 ここで、深川八郎右衛門について説明します。

 この人物が前述のように摂津国(現在の大阪府)の生まれだったことは確かなようで、家康が江戸の街を開く際に西から移住してきた有力者だったことがうかがえます。

千葉県市川市にある泉養寺(画像:(C)Google)

 八郎右衛門は1661(万治4)年に死去しますが、すでに27か町の名主になっていました。

 その後、深川家は代々名主を務めますが、第7代の時に不正の罪をかぶり断絶するに至りました。

 開基である深川家の歴史はここで終わりますが、今でも泉養寺には墓があります。

富岡八幡宮の台頭

 さて、深川の総鎮守といえば富岡八幡宮(江東区富岡)で、埋め立て地である青海や有明、港区台場の鎮守でもあります。ただ、富岡八幡宮が深川の総鎮守になったのは明治になってから。それまでは深川神明宮が深川の総鎮守でした。

江東区富岡にある富岡八幡宮(画像:(C)Google)



 富岡八幡宮の創建は、深川神明宮よりも新しく1627(寛永4)年です。こちらも別当寺として永代寺がありましたが、明治になると永代寺の別当が神官にくら替えし、永代寺は廃寺になりました(現在の永代寺はその後再興)。

 もともと富岡八幡宮は後からできた神社なので、かつては小名木川(おなぎがわ)を境に、北が深川神明宮、南が富岡八幡宮の縄張りになっていました。元々、深川神明宮のほうが広い氏子地域と人口を抱えていましたが、富岡八幡宮は次第に埋め立て地が広がるにつれて、氏子地域と人口を拡大していきました。

 また、富岡八幡宮が江戸時代を通じて多くの参拝客を集める行楽地であり、宣伝を欠かさなかったのに対して、深川神明宮は違いました。こちらはあくまで深川家が私的に祭ったのが始まりということもあり、総鎮守のプライドもあったのか、積極的に氏子を増やす意思に欠けていました。

 明治時代になり、氏子は1世帯ひとつの神社というルールが固定化されると、深川の総鎮守は富岡八幡宮のほうに移りました。海へ海へと氏子地域が拡大していく富岡八幡宮は、どの神社よりも強かったというわけです。

関連記事