【東京出身タレント名鑑】元祖「港区女子」 81歳デヴィ夫人(港区)が今、20代女性の支持を独占しているワケ

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【東京出身タレント名鑑】元祖「港区女子」 81歳デヴィ夫人(港区)が今、20代女性の支持を独占しているワケ

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多くの俳優やアーティスト、タレントたちを輩出してきた街・東京。そんな東京出身の有名人にスポットを当てて、その人柄や魅力に迫ります。今回紹介するのは、81歳でありながら若い女性の圧倒的な支持を集めるデヴィ夫人です。

日本一ゴージャスな街・港区の出身

 ゴージャスな衣装を華麗に着こなし、きらびやかなアクセサリーにも負けないオーラを放つ、デヴィ夫人。

 バラエティー番組をはじめ、さまざまなメディアに出演していますが、どのような人物であるか知らないという人も実は多いのではないでしょうか。

国際文化人としても知られるデヴィ夫人。2020年9月には「三崎優太 若者のみらい応援基金 助成先決定記者発表会」に登壇(画像:インデビジョン)



 ただならぬ雰囲気をまとったデヴィ夫人の本名は、ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ。旧名は根本七保子(なおこ)さんという日本人です。1940(昭和15)年、港区霞町(現在の西麻布)で生まれました。

 幼少期は太平洋戦争を生き抜き、定時制高校へ通いながら15歳にして家族を支えるため仕事に精を出していたデヴィ夫人。

 そして19歳という若さで、インドネシアのスカルノ大統領に見初められ結婚。幸せの絶頂の中、なんと最愛の母と弟を亡くしてしまうという、激動の人生を歩んでいます。

 そんなデヴィ夫人の言葉は、今や若い女性にも大きな影響力を与え、2019年に出版した書籍『選ばれる女におなりなさい デヴィ夫人の婚活論』は11万部超を売り上げるなど、大ヒットを飛ばしています。

 1940年2月6日生まれのデヴィ夫人は前述の通り港区出身。同区は東京都のほぼ南東部に位置し、面積はおよそ20.37平方キロメートル。人口は約25万8000人(2021年6月1日時点)。

区の木はハナミズキ、花はバラとアジサイ

 港区の木はハナミズキ、花はアジサイとバラと制定されていることからも分かるように、アジサイが咲く公園やバラ園が名所に点在しています。また近年は「港区女子」という呼称が生まれるほど、多くの若い女性があこがれる街でもあります。

デヴィ夫人の出身地である港区(画像:(C)Google)



 そんな港区出身のデヴィ夫人ですが、背筋を伸ばし、優雅な立ち振る舞いをするその姿は、とても御年81歳とは思えません。

 若々しく、新たなことに挑戦し楽しむ姿は元気をもらえるとバラエティー番組でも引っ張りだこの存在です。何者にも縛られない痛快な言い回しも、自身が歩んできた壮絶な人生が関係あるのでしょう。

 今回はデヴィ夫人が、芸能界のご意見版としてバラエティー番組などで長きにわたって活躍し、現在はその人生観や女性像が若い女性に支持されている理由を、80年超の半生をさかのぼりながら探っていきたいと思います。

貧しい家庭で生まれ育つ

 港区西麻布で生まれ育ったデヴィ夫人は、父と母、弟と暮らしていました。父は大工でしたが目を患い、母は脚が悪く、暮らしは貧しいものだったといいます。

 太平洋戦争真っただ中に幼少期を過ごしたデヴィ夫人は、中学を卒業したら働こうと決意。合格率1%未満という高倍率をくぐり抜け千代田生命に入社。

 都立三田高校の定時制へ通いながら、学業と仕事に明け暮れる日々を送っていましたが、父が死去。かわいい弟と母を養うため、さらに赤坂の高級クラブで働き出します。

 当時17~18歳ほどだったデヴィ夫人は、サラリーマンの初任給が1万8000円の時代にひと晩で1万円稼いでいたと自著で明かしています。英語は堪能、そして無二の美貌と頭の良さは、大きな評判を呼んでいました。

「東洋の真珠」大統領夫人に

 そんなデヴィ夫人がインドネシアのスカルノ大統領と出会ったのは、19歳の頃。

 当時、来日していた大統領が帝国ホテルでティーパーティーを開いており、たまたま帝国ホテル前で待ち合わせをしていたデヴィ夫人を見初めたそうです。

 単身インドネシアへ。猛勉強の末、インドネシア語、フランス語、英語を習得するなど勤勉で真面目な態度が認められ、スカルノ大統領の第3夫人まで上り詰めました。

 当時「東洋の真珠」と呼ばれるほど、圧倒的な美貌を持っていたにも関わらず、努力を惜しまなかったデヴィ夫人。海外の国家元首の妻になったのは、日本ではデヴィ夫人ただひとりというのもうなずけます。

最愛の母と弟を亡くす

 インドネシアに渡ったデヴィ夫人の元に、母親が危篤との知らせは届いたのは1961(昭和36)年12月。すぐに帰国するも母の意識はすでになく、帰らぬ人となりました。

 その2日後なんと、人にだまされ、デヴィ夫人が貯めたお金を全て失ってしまったことを思い悩んでいた弟が、自ら命を絶ってしまいます。辛く、悲しい出来事が立て続けに起こりますが、これは神からの啓示だと、デヴィ夫人はインドネシアで生きることを決意します。

 日本国籍を除籍してインドネシア国籍を取得して、根本七保子から「宝石の精なる女神」という意味を持つ、ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノとなったデヴィ夫人。

デヴィ夫人の名前は、サンスクリット語で「宝石の精なる女神」という意味を持つ(画像:pixabay)



 結婚生活はわずか8年。大統領の死によって突如終わりを迎えますが、2人の間には娘が誕生していました。

 インドネシアの情勢が悪化し、デヴィ夫人は娘を連れてフランスへ亡命しますが、フランスでも社交界の華として名をはせます。インドネシアでも新たな事業を展開するなどそのバイタリティーあふれる行動力で、自分の人生を切り開いていくのでした。

婚活本が多くの女性から支持を得る

 その華麗なたたずまいと所作から、生まれながらのシンデレラストーリーを約束された人生を歩んできたかに見えるデヴィ夫人ですが、その裏には数々の波乱と苦労と努力が隠されていたのでした。

 昨今は自身の生き様や人生観、あるべき女性像といった考え方が多くの女性に支持され、冒頭で紹介した婚活本『選ばれる女におなりなさい』は、発売前から重版が決定するほどの大ヒット作になりました。

2020年3月のポテトスナック菓子『ポテト丸』のウェブ動画など、CMにも多数出演しているデヴィ夫人(画像:おやつカンパニー)



 海外の大統領をも射止める最強の“モテ女”として、デヴィ夫人にしか語れない恋愛と結婚を説いたこの本は、若い女性から指南書として大きな注目を浴び、新たなファンを獲得しているのです。

「華やかな恋」という花言葉を持つハナミズキが区の木である、港区で生まれ育ったデヴィ夫人。

 その言葉通り、誰にも真似できない華やかな恋と自ら選び取ってきた華麗なる半生こそが、彼女自身を美しく輝かせている最大の理由です。

 年齢を感じさせない魅力あふれる姿で、これからも私たちを楽しませ勇気づけてくれるでしょう。デヴィ夫人の今後のさらなる活躍が楽しみです。

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