新大久保を断じて「コリアンタウン」と呼べない根本理由

  • おでかけ
新大久保を断じて「コリアンタウン」と呼べない根本理由

\ この記事を書いた人 /

室橋裕和のプロフィール画像

室橋裕和

アジア専門ライター

ライターページへ

韓流ファンで日々にぎわいを見せる新大久保。そんな同エリアですが、アジア専門ライターの室橋裕和さんは「コリアンタウンではない」と言います。いったいなぜでしょうか。

観光地として発展してきた街

 新大久保はコリアンタウンではない――そう言うと、驚く人もいるかもしれません。

 韓国のレストランが軒を連ね、韓流ドラマのグッズや韓国直送のコスメのショップが並ぶ新大久保。ソウル・明洞の流行がそのままリアルタイムで反映されていると言われるこの街はいまや女子に大人気となり、韓国の文化を体感できます。ではそこに韓国人がたくさん暮らしているのか……と言うと、これがそうでもないのです。

週末になると観光客が殺到する新大久保の韓流エリア(画像:室橋裕和)



 レストランやショップが密集しているのは、北の大久保通りと南の職安通り、そしてこのふたつの道を結ぶ狭い路地、イケメン通りです。

 新大久保の韓流エリアは意外に狭いのです。そして、ここから少し外れれば、ごく普通の住宅街が広がっているのですが、住民の多くは日本人。なにより、コリアンタウンと言うには「韓国人の生活の匂い」が少ないのです。

 韓国の食材を売るスーパーマーケットなどもありますが、お客は韓流ファンの観光客もたくさんいます。レストランもショップも観光客でにぎわい、店によっては大行列となりますが、韓国人の姿はあまり見ません。

 新大久保はあくまで日本人向けのコリアンタウン、観光地として発展してきた街なのです。

土着の韓国人はそう多くはなかった

 新大久保・大久保にかけての一帯には、古くから朝鮮・韓国の人たちが住んでいました。戦後に焼け野原となった新宿周辺に住み始めた人たちもいましたし、廃品回収などを営む集落があったとも伝わっています。

 開発が進む歌舞伎町で働く韓国人や台湾人が新大久保近辺に暮らしてもいました。歌舞伎町の発展とともに急増したホテル経営者にも韓国にルーツを持つ人たちが多かったと言われています。

 しかし、大きな韓国人街を形成するまでには至っていません。当時を知る在日韓国人に聞くと、「韓国の店と言っても、1970年代頃まではわずかなホルモン屋と雑貨屋くらいものだった」と言います。

「食材や生活用品などで必要なものがあれば、(大きなコリアンタウンだった)上野や川崎に行っていた」と懐かしそうに語る人もおり、韓国人街としての新大久保の規模の小ささが伺えます。

コロナ禍で激減した観光客も、少しずつ戻ってきている新大久保(画像:室橋裕和)

 1950(昭和25)年には韓国系企業であるロッテが現在の新大久保駅そばに工場を建設。これを機に韓国人が集まってきたとメディアでよく解説されますが、古くからの住民は「それは俗説にすぎない」と否定します。

 ロッテの工場ができたのはこの場所に広い土地があったからにすぎず、そこに韓国人が多く雇われて住民になっていったという話もないと言います。

80~90年代は東南アジア系が多かった

 その後、80年代に入ると外国人がたくさん流入してきますが、これは韓国人ではなく東南アジアや中東の人たちでした。

 新大久保は新宿に近く便利な割に賃料が安かったこと、地域に日本語学校や外国人を受け入れる専門学校が急増したこと、バブル期にかけて日本が労働力として彼らを必要としたことなどが背景にあると言われます。

いま新大久保で人気なのは、ハットグよりも韓国風のマカロン?(画像:室橋裕和)



 また、歌舞伎町の夜の世界で働く人たちも多国籍化し、彼らが新大久保の安いアパートに住むようにもなります。

 結果、80~90年代の新大久保はタイ、マレーシア、ミャンマー、中国、パキスタンなどの店が乱立する多民族集住地域になっていきました。韓国人はその中の「ワンオブゼム」だったと言います。

W杯と冬ソナを機に始まった「テーマパーク化」

 時代が大きく変わるのは、21世紀に入ってからのこと。2002(平成14)年に日韓で共催されたサッカー・ワールドカップがきっかけです。

 このとき新大久保にまだそれほど多くなかった韓国レストランのひとつ「大使館」で、日本人と韓国人のサポーターが集まって連日両国の試合を応援する様子がテレビで流され、大きな話題になったのです。

 これによって新大久保を訪れる日本人が急増したのですが、そこに拍車をかけたのが2003年に放映が始まったドラマ「冬のソナタ」でした。第1次韓流ブームの始まりです。

 このふたつの大きなムーブメントを、韓国人たちはある程度予測していたとも言われています。いち早く新大久保に投資をし、レストランやショップを次々に開いていったのです。

 それを目当てに日本人観光客は増え、さらに日本で学んだ元留学生たちが小規模な店をどんどんとオープンさせていきます。若い韓国人たちのビジネスチャンスの街ともなっていったのです。

ここは韓国人ビジネスマンがしのぎを削るビジネスの街でもある(画像:室橋裕和)

 こうして短期間のうちに、新大久保は「観光地としてのコリアンタウン化」が進みました。だからそこに並んでいるのは、韓国人たちの生活をベースにした店ではなく、あくまで「日本人観光客が求める店」なのです。

 暮らしに根差した韓国文化の街と言うより、韓国の流行を展示・販売している、いわばテーマパークです。その点が、上野や川崎、大阪・生野のように、在日コリアンのリアルな生活の場として歴史を紡いできた街とは異なるのです。

 レストランやショップの経営者たちもここに住んでいる人はそう多くはなく、あくまでビジネスの場として捉えている人が中心のように思います。

再び多民族集住の街に回帰している

 そしていま新大久保は、再び80年代のような多国籍化の時代を迎えています。

 これまでにさまざまな外国人たちが流入してきたため、店舗も住宅も外国人を受け入れる素地(そじ)ができていたこと、地域の日本人も(トラブルも含めて)外国人に慣れていたこと、それにやはり便利な立地と、日本語学校の多さを背景に、東南アジア、南アジア、中近東の人たちが集まってきています。

ハットグの人気も一時よりは落ち着いた(画像:室橋裕和)



 韓流エリアを少し外れると、ハラルフード(イスラム教の戒律に沿った食べ物)を扱うショップが並び、ネパールやベトナムのレストランが点在し、中国人の留学生や予備校生もたくさん歩いています。

 そしていま新大久保に暮らす韓国人は、留学生やワーキングホリデーの若者が中心のように思います。こうしたさまざまな点を考えるに、新大久保はコリアンタウンと呼ぶには少し違った存在なのです。

関連記事