昔は工場地帯、今やタワマンシティー 意外と知らない「大崎」のディープな歴史をたどる
2020年7月12日
知る!TOKYO20世紀末以降、めまぐるしい変化を遂げている大崎駅周辺。その歴史はいったいどのようなものだったのでしょうか。フリーライターの小西マリアさんが解説します。
かつて木造住宅と工場群が並んでいた大崎
山手線とりんかい線のターミナル駅としてにぎわいを見せる大崎駅(品川区大崎)ですが、20世紀末までは鶯谷駅と競い合うほど、山手線屈指の地味な駅でした。

現在はタワーマンションが立ち並んでいますが、当時、駅周辺に広がるのは木造住宅と工場群で、駅前には繁華街もほとんどなくとても静か。
都心に位置するにも関わらず、京浜工業地帯の一部であることを強く感じさせる、独特のディープな味わいがあったのです。
大手企業の工場が集結
大崎という土地が工場地帯として開発されるようになったのは、明治時代から。
日本初の板ガラス製造工場である「興業社」が設立され、目黒川の水を豊富に利用できる大崎にはどんどん工場が建設され始めました。
明治以降、大崎には明電舎をはじめ、高砂工業や日本精工、星製薬など多くの企業が拠点を置きました。

大崎駅の存在意義というのは、こうした工場で働く人々が通勤で利用する駅としての色が極めて強いものでした。ゆえに、おしゃれな店などは皆無。
むしろ工場で働く人向けの食堂など質実剛健な店ばかりで、山手線の駅の中で独特な雰囲気がありました。
高度成長期が終わる頃までは特にそのような色彩が強く、大崎駅周辺の風景といえば鈍(にび)色の工場。その周囲には、木造住宅や独身向けのアパート。工場の騒音も強いばかりか、河川改修がおざなりになっていた目黒川は悪臭を放っていたといいます。
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