どの駅からも遠い 世田谷区の端っこ「喜多見」は江戸風情が残る穴場スポットだった

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どの駅からも遠い 世田谷区の端っこ「喜多見」は江戸風情が残る穴場スポットだった

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荻窪圭

フリーライター、古道研究家

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古き良き世田谷の原風景・田園風景を楽しめる場所として知られる喜多見。そんな喜多見は江戸の風情が残る穴場スポットでもあるのです。フリーライターで古道研究家の荻窪圭さんが解説します。

世田谷区のハズレにあるとっておきの場所

 コロナ禍で「ご近所さんぽ」がにわかに注目を浴びている今日この頃、みなさまお元気でしょうか。時折、東京の街歩きガイドもしている荻窪圭です。

 まだまだ人が多いところへの外出は避けるべき時期。緊急事態宣言が解除されても、「三密」は避けたいところ。そこで、個人的に何度も訪れているのだけど、三密状態になってるのは見たことがないとっておきの場所を用意しました。

 それは世田谷区のハズレ、どの駅からも遠い「喜多見」です。

稲荷塚古墳。古墳時代後期の円墳で、今はきれいに整備され、公園になっている(画像:荻窪圭)



 古い道筋がそのまま残ってますし、まだ農地もいくらか残っていて高い建物もないため見通しもよいですし、何より古くて渋いお寺と神社があり、そのこけむした長い参道は「ここほんとに23区?」と思わせてくれます。

古墳時代の大刀も出土

 喜多見のおすすめスポットを古いところからいくと、まず喜多見古墳群。

 きれいに残っている稲荷塚古墳(世田谷区喜多見4)は小さな公園になっているため行くべきです。稲荷塚といいますからおそらく墳頂に稲荷が祭られていたんですね。古墳時代の大刀(たち)も出土しています。

 その南東方向にある須賀神社(同)も古墳。

須賀神社。社殿が少し高い位置にあるのは古墳の上にあるため。天神塚古墳の上に社殿が建てられた(画像:荻窪圭)

 古墳の上に社殿が立っており、天神塚古墳と名づけられています。かつて墳頂に天神さまが祭られていたのでしょう。今はよく見ると社殿が少し高いところに置かれているのが古墳らしさでしょうか。

 その少し南にある竹やぶは第六天塚古墳(同)。

 墳頂に第六天が祭られており、今でも竹の隙間から小さな祠(ほこら)が見えます。私有地なので中には入れませんが、垣根の前に解説板が置かれています。

エリア内には江戸氏の菩提寺も

 さらに、須賀神社から西へ向かうと広大な敷地を持つ慶元寺(世田谷区喜多見4)というお寺があります。

 ここの境内からも古墳がいくつか見つかってます。教えられなければ古墳とはわからない小さな墳丘も一般公開されてない庭園内の古墳もあります。

 この古墳を持つ慶元寺がなかなか素晴らしいのです。

 道路から続く長い参道は両側に木が茂っていて昼間も薄暗いのですが涼しい風が吹き、日本の夏らしさを味わえます。

慶元寺の長い並木道の参道。江戸時代と変わらぬ長い参道が維持されていて、タイプスリップしたような感覚に(画像:荻窪圭)



 慶元寺のポイントは江戸氏の菩提(ぼだい)寺であること。江戸氏ですよ、江戸氏。話は平安時代末期にさかのぼります。

江戸氏の墓所がある理由

 秩父平氏の一族が江戸から浅草あたりを領し、そこの地名である「江戸氏」を名乗りました。

 有名なのは2代目の江戸重長(しげなが)。当初は敵対していたものの、のちに源頼朝の鎌倉入りを助け、鎌倉幕府の下で活躍しました。

 その後、江戸一族が各地で力をふるったりふるわなかったりしていたのですが、隅田川や多摩川といった水運の要衝を抑えていたようです。赤坂の日枝神社も元は、江戸氏が勧請(かんじょう。神仏の分霊をほかの場所に移し祭ること)した山王宮が元ともいわれてます。

 ですが室町時代後期頃、江戸氏は江戸から喜多見へ移ってきました。この辺の詳しい経緯はわかっていないのですが、太田道灌との勢力争いに敗れ、道灌は江戸城を築き、江戸氏は喜多見へ逃れたとされてます。

慶元寺にある江戸氏の墓所。中央奥が初代江戸氏と二代目江戸太郎の宝篋印塔。その他は戦国時代から江戸時代のもの(画像:荻窪圭)

 そのとき、江戸氏の菩提寺も一緒に引っ越します。それが慶元寺。かつては東福寺という名でしたが喜多見へ移ったのち、1540(天文9)年に慶元寺と改称しました。

 なので、慶元寺には江戸氏の墓所があるのです。墓地の一角に初代と2代目の江戸氏の宝篋印塔(ほうきょういんとう。宝篋印経にある陀羅尼〈だらに〉を書いて納めた塔)が立ち(さすがに当時のものではありませんが)、戦国時代以降の江戸氏の墓があります。

23区内に藩があった歴史も

 そして境内には江戸重長の像が。世田谷区の端にある江戸です。ちょっと気になりますよね。

慶元寺にある江戸太郎重長の像。平安時代末期から鎌倉時代の武将だが、「大福長者」とも言われたという(画像:荻窪圭)



 その江戸氏ですが、戦国時代は世田谷城城主の吉良氏に仕え、徳川家康が江戸に入ると家康に仕えました。そのとき、江戸の名を名乗るのははばかられるというので喜多見氏に改姓してます。

 江戸時代の喜多見氏はというと、なんと1683(天和3)年に喜多見藩の藩主となります。あまり知られてませんが、23区に藩があったのですね。ただほんの数年で改易されてしまいました。はかなすぎて泣けます。

奈良時代に創建された喜多見氷川神社

 慶元寺の裏手には、これまた広大な敷地を持つ喜多見氷川神社(世田谷区喜多見4)があります。

喜多見氷川神社の長い参道。途中に1654年に喜多見氏の兄弟が奉納した小ぶりな石鳥居が今でも残っている(画像:荻窪圭)

 こちらはさらに古く、奈良時代の740(天平12)年に創建され、多摩川の洪水によって流されたものの戦国時代の1570(永禄13)年に喜多見にやってきた江戸氏によって現在地に再興されたと伝わります。

 真偽は不明ですが、喜多見には奈良時代の遺構も見つかっており、当時から祭られていても不思議はありません。

 長い参道の雰囲気は慶元寺とそっくり。参道の途中には1654(承応3)年に喜多見氏が寄進した古い石の鳥居が現存しています。

近くには民家園も併設

 喜多見もここ数年で農地が減り住宅が増えましたが、古い街らしさは健在。

 江戸時代以前からの登戸道やもっと古い府中と品川湊(みなと)を結んだという品川道が交差する場所でもあり、多摩川からほど近い微高地でもあり、隠れたタイムスリップスポットなのです。

「カシミール3D+スーパー地形」より喜多見の拡大図。白い線が古道。色は高低差を表している。ほんの少し高い場所に集落があったことがわかる(画像:荻窪圭)

 なお、どの駅からも遠いと書きましたが、成城学園前駅と二子玉川駅を結ぶバスが頻繁に走っているので(バス停は「次大夫堀公園前」か「下宿」が近い)意外に不便ではありません。

 近くの次大夫堀公園(じだゆうぼりこうえん。世田谷区喜多見5)には民家園も併設されています。知る人ぞ知る歴史スポットにぜひ。

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