マカロニの親せき? 安土桃山時代に伝来? 「マカロン」知られざる波乱万丈ヒストリー【連載】アタマで食べる東京フード(14)
味ではなく「情報」として、モノではなく「物語」として、ハラではなくアタマで食べる物として――そう、まるでファッションのように次々と消費される流行の食べ物「ファッションフード」。その言葉の提唱者である食文化研究家の畑中三応子さんが、東京ファッションフードが持つ、懐かしい味の今を巡ります。想像以上に長い、マカロンの歴史 平成になってから、数多くのスイーツがはやったりすたれたりの激しい栄枯盛衰を繰り返しました。完全に忘れ去られたものは意外と少数派で、いったん消えても突然カムバックして2次、3次ブームが起こったり、復活してからは静かに浸透していったりしたものが珍しくありません。 そのなかで、ユニークな流行曲線を描いてブレークに至ったのが、マカロンです。 フランスのお菓子と思われていますが、実はイタリア生まれ。しかし、先祖は遠くさかのぼってギリシャ時代の蜂蜜とアーモンドの練り菓子だとか、イスラム教徒のアラブ人がイタリア、スペイン、ポルトガルなどに伝えたものだとか、謎の多いお菓子です。 マカロンの語源は「練った生地を切る」という意味の「マッケローネ」。ここからパスタのマカロニとお菓子のマカロンに分かれたらしい。そういわれてみればマカロニとマカロン、一字違いです。 濃くてカラフルな着色が受けたマカロンは、“映えスイーツ”の第1号(画像:畑中三応子) フランスへは16世紀、フィレンツェのカトリーヌ・ド・メディシスがフランス王と結婚するさい持ち込んだと言われますが、フランスの中世時代、西暦700年代にロワール地方の町、コルムリーの修道院で作られたなど、こちらも諸説あります。 コルムリーのマカロンはいまでも人気のあるご当地銘菓で、リング形に焼かれたユニークなマカロンです。 現在、マカロンといえばカラフルな生地2枚のあいだにクリームやジャムがサンドしてあるタイプを指しますが、実はフランス各地には古くから約30種のご当地マカロンがあり、それぞれが正統性を主張しています。 安土桃山時代に伝わったという説も安土桃山時代に伝わったという説も どんなに形や食感が違っても、基本の材料は卵白、砂糖、アーモンドパウダーの3種で作られるのがマカロンの原則。なかでも名高いマカロン・ド・ナンシーは、ひび割れたビスケットのような素朴な外観で、カリカリ、ほろりとしています。 そのマカロンが安土桃山時代、カステラや金平糖、ボーロと同様、ポルトガル人、スペイン人、オランダ人によって日本に伝えられたという説があります。 渡来の時期は不確かですが、日本各地で駄菓子として定着している「マコロン」のルーツがマカロンであることは、間違いないでしょう。かわいらしい丸っこい形と、表面のひび割れがトレードマークのマコロンは、どう見てもフランスの古いマカロンにそっくりです。 江戸前期の元禄年間(1688~1704)、塩釜に漂着した南蛮人によって伝えられたとされる仙台駄菓子のひとつ、「仙台マコロン」。材料のピーナッツは中国を経由して18世紀のはじめに日本に伝わり「南京豆」と呼ばれた(画像:畑中三応子) 西洋菓子に不可欠な乳製品がない昔は、代用品を使うなどのアレンジが施されて和菓子化していきましたが、マコロンの場合、アーモンドのかわりにピーナッツの粉を使い、卵白だけでなく卵黄も加えたところがお見事な突破口。まさに換骨奪胎(かんこつだったい)のお菓子でした。 このマコロンに加え、近代以降はナッツの香ばしさを強調したマカロンもお目見えしましたが、すべてがカリカリしたビスケットタイプでした。 これに対し、今日の主流であるやわらかいタイプは、正式にはマカロン・パリジャン(パリ風マカロン)という名前。20世紀にパリで確立した新しいカテゴリーです。 マカロン・レジェ(軽い)、マカロン・リス(つやのある)とも呼ばれ、その通りふわりと軽く、表面がひび割れずにすべすべしたつやがある。卵白をそのまま練り合わせて生地を作る古いマカロンと異なり、泡立てた卵白で作ります。ドーム状にふくれた外皮は歯ざわりよく、内側はとろけるようにやわらかく、下側にピエ(足)が出るのが特徴です。 ヒットに至るまでの“下積み時代”ヒットに至るまでの“下積み時代” 筆者が編集した本でパリ風マカロンを最初に紹介したのは、1989(平成元)年。現在「イデミ スギノ」のオーナーシェフ杉野英実さんの『市場からの菓子』でした。杉野さんは「修得するのが難しく、高度なテクニックを必要」とするお菓子で、「数あるマカロンの中でも特に上品で、人気の高い一品」と、その魅力を熱く語っていますが、実のところ商品としてはまったく人気がありませんでした。 当時は色とりどりのムースを使ったプティ・ガトーが注目されている時代で、マカロンのような焼き菓子は華やかさに欠ける印象だったためでしょう。実際、色合いはいまよりずっと控えめで、地味でした。 その次にマカロンを掲載した1991(平成3)年の『洋菓子の出発点』では、著者の現日本洋菓子協会連合会会長・島田進さんは「マカロンはフランス人がこよなく愛する代表的なフール・セック(焼き菓子)」で「たいへん由緒ある伝統的なお菓子」だが、「今まで何軒ものフランス菓子店が努力してきたにもかかわらず、どうも日本人には人気がないのが残念」と語っています。 平成初期に出版した『市場からの菓子』と『洋菓子の出発点』。マカロンのおいしさや伝統的な価値を紹介した(画像:畑中三応子) そうなんです。当時、島田さん、杉野さんはじめ、多くの有名パティシエがマカロンのおいしさをわかってほしいと願い、メディアで盛んにアピールし、自分の店で売っていたのに、人気はさっぱり。筆者も書籍と雑誌を通してマカロン普及に努めましたが、反応はいまひとつで、いつも「パティシエ受けして客受けしない菓子の代表」だと感じていました。 潮目を変えたのが、ピエール・エルメの日本進出です。 「パティスリー界のピカソ」と呼ばれる天才肌のパティシエ、エルメさんはそれまでバニラ、ショコラ、フランボワーズ、コーヒーくらいしかなく、地味だったマカロンのフレーバーと色のバリエーションを無限といってよいほどの種類に増やし、ファッショナブルな現代菓子に生まれ変わらせました。 彼はそれを「クリエーション」と呼び、マカロンレシピの数は100以上に上るそうです。 イメージ一新、映えスイーツ第1号にイメージ一新、映えスイーツ第1号に ブティック第1号店をホテルニューオータニ(千代田区紀尾井町)内にオープンしたのは、1998(平成10)年。「フランスのトップ天才パティシエ」のブランド力とともに登場したマカロンは、それまでのイメージを一新しました。2005(平成17)年には青山通りに初の路面店をオープン。その年には「マカロンデー」というイベントを初開催しています。 元来、日本人は色が派手で、香りが強すぎる食べ物は嫌う傾向がありますが、マカロンの場合、色づけが濃くても、コスメのように香りが強くても、逆に「これこそパリ風!」と、かえっておしゃれに受け入れられました。 効果絶大だったのが、中身の見える透明ケースや、コストのかかったオリジナルデザインのボックスなど、マカロンの色と形をより映えさせるパッケージとラッピングで、贅沢感とポップでキュートなイメージを倍増させたことです。思えば、これが“映えスイーツ”の序章でした。 この流れは日本のパティシエにも広がり、みなこぞってマカロンのバリエーションを増やし、パッケージのおしゃれ度アップに励みました。そうするうちに、あれよあれよという間にブームが巻き起こっていったのです。 決定打になったのが2008(平成20)年、マカロン発祥の店といわれる「ラデュレ」の日本進出。ソフィア・コッポラ監督の映画『マリー・アントワネット』(2006年)のスイーツを監修したパリ屈指の老舗の出店は大きな話題を呼び、映画でもたっぷり観られたカラフルなマカロンは、さらに特別なブランド感をまとうことに成功しました。 「ラデュレ」のマカロン。バラで買っても無料のボックスに入れてくれる(画像:畑中三応子) さらにラデュレは、デザイナーとコラボしたボックス、クリスマスやバレンタインなどシーズン限定デザインのボックスを次々と送り出し、女性の買いたい気持ちを刺激しました。 有名店のマカロンはたいてい1個が300円前後と、もともと高い値段設定ですが、マカロンボックスだと、4~5割増しになってしまう。むしろ値段を高めに設定することで付加価値を高めたわけです。 「プラチナやダイヤじゃなくて、シルバーのピアスをプレゼントされるくらいなら、ラデュレのマカロンボックスのほうが断然嬉しい」とのたまう若い女性もいるそうです。 まるでコスメやジュエリーのようにまるでコスメやジュエリーのように こうしてマカロンは、食べ物というより、コスメやジュエリーに近いファッション性が受け入れられてブームに至り、だれもが知るお菓子になりました。 正攻法でおいしさや伝統的な価値をアピールし、マカロン啓蒙に一生懸命だったパティシエたちを応援していた身としては、ちょっと複雑です。しかし、いまやコンビニで手頃な値段で買えるほど普及したのも、フランスのブランドによるイメージ戦略のおかげ。得たものは多かったといわざるを得ません。
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