左官職人の道具が生み出す超リアルな3D絵画「鏝絵」が品川の神社にあった

  • おでかけ
  • 品川駅
左官職人の道具が生み出す超リアルな3D絵画「鏝絵」が品川の神社にあった

\ この記事を書いた人 /

黒沢永紀のプロフィール画像

黒沢永紀

著述家・軍艦島伝道師

ライターページへ

一般的にはまだまだ知られていない、左官の仕事で使う鏝(こて)で創られる3D絵画「鏝絵」について、都市探検家の黒沢永紀さんが解説します。

現在の社殿は1873年建立

「鏝絵(こてえ)」をご存知でしょうか。建物の壁や床などを塗り仕上げる左官が、その作業で使用する鏝ひとつで創り出す、いわば着色されたレリーフの様なものを言います。

 そんな鏝絵のひとつが、品川の「寄木(よりき)神社」(品川区東品川)にあります。鏝絵の名工といわれた伊豆の長八による作品。今回は、品川の鏝絵に迫ってみたいと思います。

 寄木神社は、京急新馬場駅北口から東へ徒歩約5分のところにある、品川裏が漁師町だった頃からの古社。現在は埋設されてしまったかつての目黒川と品川浦に挟まれた細長い洲の上に建つ神社でした。

 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が御東征の際、海神に行く手を阻まれて大破した船の木片が寄り集まり、流れ着いた地でそれらを祀ったのが創祀(そうし)とされます。日本武尊とともに、海神の怒りを沈めるためにその身を犠牲にした妃の弟橘媛(オトタチバナヒメ)を祀ることから、神紋(しんもん)には珍しい十六弁の裏菊紋が使われています。

寄木神社の神殿扉に施工された「鏝絵天鈿女命功績図(こてえ アメノウズメノミコト こうせきず)」の全体(画像:黒沢永紀)



 現在の社殿は1873(明治6)年の建立で、唐破風(からはふ)かと思うほど湾曲した起り破風(むくりはふ)の屋根や、外壁を凝灰岩で覆った、まるで石蔵の様な神殿、そして頭にろうそく台といわれる穴を持つカッパ狛犬など、見どころ満載の神社です。

 そして蔵造りの神殿の観音扉に、伊豆の長八の鏝絵が残っています。拝殿と短い廊下でつながって壁で覆われ、更に扉の内側だったので、比較的良好な状態で保存されたのでしょう。

鏝絵は徐々に衰退、今では作れる人もほんのわずか

 鏝絵は、左官の仕事で使う鏝だけで創られる、いわば3D絵画の様なもので、元々は、左官職人が、仕事をさせてもらったお礼と自著を兼ねて施したのが始まりといわれます。

 もちろん当初はシンプルなものだったのでしょうが、やがて技巧を凝らした緻密な表現へと進化していきました。それはまるで一服の絵画の様な印象で、事実、伊豆の長八は実際の壁に作る鏝絵とどまらず、額に入れて展示するための「塗額」や、さらには立体造形まで数多く制作しています。

 鏝絵が最も盛んに作られたのは江戸の後期から明治時代で、現在でも約3000の鏝絵が、国内各地に残っているといわれます。そのうちの3分の1くらいが大分にあり、特に安心院(あじむ)というエリアには数多くの鏝絵が残っていて、観光誘致に大きく貢献しているようです。

大分県宇佐市安心院町の様子(画像:写真AC)



 しかし、戦前にはたくさん残っていた鏝絵も、戦禍に見舞われた地域を中心に失われてしまいました。もちろん、自然崩壊や剥落(はくらく)によって失われてしまったものも数多くあります。事実、同じ品川の善福寺(品川区北品川)に残る伊豆の長八の鏝絵は剥落が激しく、ほんの一部しか見ることができません。また、建物の壁に漆喰を使わなくなるに従って鏝絵も徐々に衰退し、今では鏝絵を作れる人もほんのわずかといいます。

品川に長八の作品が多いワケ

 そんな鏝絵の世界で、現代でもその名を遺す名工のひとりが伊豆の長八です。本名は入江長八といいますが、入江長八を紹介した画家・結城素明(そめい)の著書『伊豆の長八』によって、広く伊豆の長八として知られるようになりました。

 伊豆南西の松崎に生まれた長八を紹介する際、その出身地を名字にすれば、伊豆の観光活性化にもつながるという目論見があったと伝えられます。

 伊豆の松崎は、四季を通して強い西風が吹き付ける土地で、その昔から多くの家屋が屋根を漆喰で強固に固めていました。その結果、左官業がとても栄えた土地だったので、幼少の長八も、自然と左官の仕事に慣れ親しんでいったようです。

松崎海岸の様子(画像:写真AC)



 18歳の頃に江戸へ出た長八は左官の仕事をしながら、画家・喜多武清(ぶせい)のもとで狩野派風の絵を学び、やがて絵画的な鏝絵の創作にまい進することになります。

 27歳のときに制作した、茅場町の薬師堂での仕事は瞬く間に評判を呼び、名工・入江長八の名が知れ渡るようになりました。田舎者の左官に負けたとあっては江戸左官の名折れだということで闇討ちにも遭ったそうですが、それだけ長八の人気は凄かったのでしょう。

 また、左官一筋の人かと思いきや、新内流し(三味線音楽のいちジャンルで、花街などでの流しとして発展した哀調ある曲調が特徴)も嗜(たしな)んだようで、そこから粋な遊び人としての長八の姿も見えてきます。

 先妻を亡くした後、長八は品川の芸妓・お花と夫婦になり、以降品川に長く住むことになりました。品川に長八の作品が多いのはこのためで、品川宿場一の飯盛旅籠(めしもりはたご)といわれた「土蔵相模」にも、長八の鏝絵があったようです。

「鏝絵天鈿女命功績図」に関する新説も

 話を寄木神社へ戻し、1873(明治6)年、現在の社殿の建立に併せて長八が手がけたのが「鏝絵天鈿女命功績図(こてえ アメノウズメノミコト こうせきず。以降、功績図」。神殿の左右の扉裏に描かれた鏝絵は、『日本書紀』に記された天孫降臨のワンシーンといわれます。

 日本の神々のひとり、天照大御神(アマテラスオオミカミ)が、高千穂に孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を送り出した際、その途上にいた猿田彦命(サルタヒコノカミ)に、天鈿女命がその素性を問いただす一幕です。左扉の上部に、鏡と剣を持ち、人形のような姿で立つ瓊瓊杵尊、そして下部に、表情豊かに身のこなしもしなやかな天鈿女命が描かれています。

左扉。鏡と剣を持っているのが瓊瓊杵尊で、ストリップをしているのが天鈿女命(画像:黒沢永紀)



 神社の解説板には、瓊瓊杵尊を天照大御神とし、さらに扉の左右を別々のシチュエーションととらえて、左を天岩戸から天照大御神が姿を現したシーン、右を天孫降臨の際に途上に現れた猿田彦命というふたつの場面を描いている、とあります。

 しかし、鏝絵の説明板を制作した品川区の教育委員会が発行する『品川の口碑と伝説』および『品川区文化財調査資料 昭和40年度版』では、いずれも天孫降臨のワンシーンを左右に描いたもので、左上は瓊瓊杵尊としています。

 なぜこんなことが起きてしまったのでしょうか。同教育委員会によると、もともとの伝承では解説版の内容だったところ、昭和の文化財調査で新説がうまれ、瓊瓊杵尊がいる天孫降臨のワンシーンを左右に描き分けたものではないかという結論に達したといいます。しかし、その根拠が明確に記されているわけではなく、品川区としても、完全に瓊瓊杵尊と断定はできないとのこと。

猿田彦命は古説と新説に共通

 あらためて左右の鏝絵を見ると、天孫降臨を表すのに猿田彦命だけというのには不自然さがあり、左右で天孫降臨のワンシーンを表現したと考える方が順当で、その結果左上の像が瓊瓊杵尊というのも納得がいきます。しかし、その立ち姿はとても女性らしく見え、やはり天照大御神である可能性も捨てきれませんが、やはり瓊瓊杵尊が描かれていないのが不自然です。

 そもそも、天鈿女命のストリップは『古事記』と『日本書紀』のいずれにも登場しますが、そのシチュエーションが異なります。『古事記』では、天岩戸から天照大御神を誘い出すとき、『日本書紀』では天孫降臨の際に猿田彦命にその素性を問い正すときで、すなわち古説であれば『古事記』を基にし、新説であれば『日本書紀』を基にしたシーンということになり、鏝絵の解釈によって、その原典自体が違うものにもなってしまいます。

 ともあれ新説を基準にすると、天鈿女命の胸がはだけているのは、途上に立ちはだかる猿田彦命に、ストリップで油断させながらその素性を聞き出すためで、これにより猿田彦は天孫降臨の邪魔立てをするためではなく、道案内のためにやってきたことが判明します。

 そして右の扉に描かれているのが、古説と新説に共通する猿田彦命。いかつい表情や浮き上がる血管など、とても鏝だけで作り出したとは思えないリアルな造形には驚かされます。

珍しい起り破風の屋根を持つ拝殿。賽銭箱などに見える菊の神紋が「裏菊神紋」(画像:黒沢永紀)



 猿田彦に比べると、左の二神、とくに瓊瓊杵尊は手抜きかと思えるほど表情がなくて人形の様です。そこから考えると、『日本書紀』を基に天孫降臨のシーンを現したもので、左上は三種の神器を瓊瓊杵尊に手渡した天照大御神を抽象的に描いたもの、と考えるのはどうでしょうか。天照大御神を適当に描くこと、すなわち姿をリアルに描かないことで、逆に畏れ多い存在であることを強調したかったのかもしれません。

“芸術的”と何か

 鏝絵は左官職人による工芸で、“芸術的な価値”が低いことから、学術的な研究がほとんどされていないといいます。しかし、芸術という言葉自体が明治以降に西欧から入ってきた、英語での「art」を無理して翻訳した言葉であることを考えれば、そもそも、西欧でいうアートという概念がなかった日本文化を理解する上で、“芸術的”ということ自体の重要性に疑問が残ります。

 功績図を見て思い出すのは、10世紀以上にわたって作り続けられた西欧のキリスト教絵画です。聖書の教えをビジュアルで表現したこれらの絵画は、キリスト教の普及に大きく貢献しました。

 この功績図も、単に奉納という目的だけでなく、文盲の人達に日本神話の世界をわかりやすく説き明かしたのではないでしょうか。キリスト教絵画がアートとして美術館に展示されるのなら、入江長八の作品もまたアートと呼べるものかもしれません。

とても珍しい石貼りの土蔵神殿(画像:黒沢永紀)



 なお、功績図は、普段は非公開ですが、年に一度一般公開されます。それ以外にも、見学ツアーをはじめとした閲覧の機会は時々あるようなので、機会があったらご覧になってみるのはいかがでしょうか。

関連記事