池袋駅から徒歩10分の「雑司が谷」は、鬼子母神とレトロな商店街が広がる都会のオアシスだった

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池袋駅から徒歩10分の「雑司が谷」は、鬼子母神とレトロな商店街が広がる都会のオアシスだった

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黒沢永紀

都市探検家・軍艦島伝道師

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JR池袋駅南口から南東方面に歩くと現れる雑司が谷エリア。鬼子母神で知られる同エリアの魅力について、都市探検家・軍艦島伝道師の黒沢永紀さんが解説します。

「雑司が谷」と「雑司ケ谷」

 JR池袋駅南口から南東方面に徒歩10分。東京メトロ雑司が谷(ぞうしがや)駅の界隈は、緑深い鬼子母神(きしもじん)とレトロな商店街が広がる都会のオアシス。今回はそんな雑司が谷の話です。

ケヤキ並木が緑のアーチを作る鬼子母神の表参道(画像:黒沢永紀)



「雑司が谷」……この一風変わった名前の土地は、南北朝時代に京都で雑色(ぞうしき。主に雑務の役職)を務めた者が移り住んだことや、近隣の林が法明寺の雑司料だったことなどに由来するといわれています。

 また「谷」は、池袋の西口付近にあった池を水源とし、鬼子母神の北を流れて神田川へ合流していた弦巻川の谷戸からとられたもの。川は昭和の初めに暗渠化され、今は急峻な地形を確認できるばかりです。

 ちなみに、現在の行政区分や東京メトロの駅名は平仮名の「が」をあてる「雑司が谷」、霊園や都電の駅は「雑司ケ谷」というように、カタカナの「ケ」をあてます。

 さらに、東京メトロの雑司が谷駅に隣接する都電の駅は「鬼子母神駅」で、メトロの駅から遠いのが都電雑司ケ谷駅というように、いささかややこしい表記にもなっています。

 特に鬼子母神の界隈は、都区内で数少ない先の大戦の戦禍を免れたエリアなので、戦前の香りがそこかしこに遺り、とてもノスタルジックな雰囲気に包まれているのが特徴です。

文化財の看板建築がある表参道

 都電鬼子母神駅の北に位置する鬼子母神の境内を目指して進むと、ほどなくして、大きなケヤキ並木が美しい、オアシスのような表参道にたどり着きます。参道の出入口付近にあるのが、看板建築としては数少ない国の有形文化財に登録されている「砂金家長屋」。1932(昭和7)年に建てられた、ちょっとモダンな装いの看板建築で、2018年に登録されました。

看板建築としては珍しい、文化財に登録された「砂金家長屋」(画像:黒沢永紀)



 5軒長屋の造りで、1階は店舗、2階が住居のメゾネットタイプ。1階部分は改装が繰り返されていますが、以前からほぼ創建時の姿をとどめていた2階部分は、文化財の登録時にクリーンナップされました。特に建物の角に施された升柄のデザインが、和洋折衷な時代の香りを今に伝えています。

 現在は真ん中の居室が観光案内所になっているので、内覧も可能。外観と同様、かなり改装されてはいるものの、裏口の色ガラスをはめ込んだ引戸や急峻な階段など、当時の様子をうかがえるものも残っています。

 また、砂金家長屋の裏手には、日本コミック界の巨匠、手塚治虫がトキワ荘の次に移り住んだとされる「並木ハウス」もあります。こちらも綺麗に塗り直されてはいますが、躯体は創建当時のま。といっても、こちらは戦後の建物ですが。手塚治虫ファンの方には、おなじみの建物でしょう。

フクロウがあちこちにいる鬼子母神

 ケヤキ並木の参道を抜けると、鬼子母神堂が見えてきます。近隣にある法明寺(ほうみょうじ)の飛地境内にあり、その名の通り鬼子母神様を祀った1664(寛文4)年創建の古刹。

厳かな雰囲気を醸し出す鬼子母神の本堂(画像:黒沢永紀)



「鬼」の字の頭に付いているツノをつけない表記が正しく、これは善行に転じた鬼を表すといわれます。ちなみに「神」とつきますが、仏教の守護神ということは、ご存知の方も多いことでしょう。

 境内の中央に育つ大公孫樹(おおいちょう)は樹齢700年ともいわれ、頂が見えないほど高い様子はとても霊験あらたか。鬼子母神がパワースポットと言われる所以のひとつです。

ススキミミズクと国内最古の駄菓子屋

 また、境内のあちこちにフクロウのオブジェを散見するのは、雑司が谷に伝わる「すすきみみずく」の伝説によるもの。貧しさゆえに病気の母の薬を買えなかった娘が鬼子母神にお参りしたところ、「ススキでミミズクを作って売り、それを治療費に」のお告げを受けて作ったミミズクが良く売れ、薬を買うことができたという伝説です。

 かつては鬼子母神の参詣土産としと人気のあったススキミミズクも、現在は作り手の後継者不足で風前の灯です。

鬼子母神の境内にある、国内現役最古の駄菓子屋「上川口屋」(画像:黒沢永紀)

 そして鬼子母神といえば、なんといっても「上川口屋」。創業1781(天明元)年! 約240年も続く、国内最古の現役の駄菓子屋さんです。13代目が切り盛りするお店には駄菓子以外のものが一切なく、正真正銘の駄菓子屋さん。軒先が張り出しているのは、その昔お殿様が雨の日に訪れても濡れないようにとの気遣いの名残とか。近年では、子供よりも参拝客で賑わう人気店です。

 そのほか境内には、力比べに使われた「力石」や、日暮里の名店「羽二重団子」によって復活した、かつての名物「おせん団子」(土日販売)など、長時間いても楽しめる仕掛けが満載の境内です。

錚々たる文豪が眠る雑司ケ谷霊園

 鬼子母神堂から都電を渡って東のエリアへ移動すると、東京三大霊園のひとつ、巨大な敷地を擁する「都立雑司ケ谷霊園」が広がります。泉鏡花や小泉八雲をはじめとした錚々(そうそう)たる文豪や、荻野吟子や東條英機など、大きな社会活動をした人たち、そして江戸家猫八やいずみたくなど芸能関係の人たちなどが数多眠ることで知られています。

 夏目漱石の墓はとても立派なものですが、これは本人の意思ではなく、当人はもっと質素なものを望んでいたと聞いたことがあります。また、数々の遊女の物語で知られる永井荷風は、吉原遊廓の投げ込み寺だった浄閑寺への埋葬を切に願っていたものの、結局永井家の墓所である雑司ケ谷霊園へ埋葬されています。

雑司ヶ谷霊園にある、とても質素な竹久夢二の墓跡(画像:黒沢永紀)



 美人画で知られる大正時代の画家・竹久夢二のお墓もあります。外柵がなく、自然石と思われる大きめの石に「竹久夢二を埋む」とだけ書かれた質素な墓石には、夢二らしい柔らかい優しさを感じます。

明治の香りを今に伝える旧宣教師館

 雑司ヶ谷霊園のすぐ南にある「雑司が谷旧宣教師館」は、国内でも珍しいアーリー・アメリカン様式の木造建築。帝国主義に拍車がかかる明治の終わりに、日本へやってきたアメリカのプロテスタント宣教師・マッケーレブの私邸です。

雑司が谷宣教師館の、特殊な外壁の処理(画像:黒沢永紀)

 白と緑の塗り分けが鮮やかな、いかにもアメリカの片田舎にありそうな可愛い建物は、1907(明治40)年築の木造二階建て。現在の建屋は、そのほとんどが修復され、オリジナル部材は室内の扉などほんのわずか。それでも、なるべく忠実に復元されてきてきた姿からは、開放的な宣教師館の姿を偲ぶことができます。

 玄関の屋根の下に施工された方杖(ほおづえ)と呼ばれる飾り付けは、当時アメリカで流行っていたもので、その形状が十字架のイメージと重なります。また2階各部屋の、竹を使った格天井(ごうてんじょう。格子状に仕上げた天井)はとても珍しく、居留地建築によく取り入れられたコロニアル・スタイルの進化したものでしょう。

 そして最大の見所は、各階の裾が外側へ跳ねる形で雨対策を施した外壁。この技法が現存するのは、国内ではここだけとのこと。それにしても、ずいぶんと大工泣かせな技法だと思います。

昭和レトロな弦巻商店街

 宣教師館から南へ谷戸を下ると、かつての弦巻川沿いに造られた弦巻通り商友会へたどり着きます。鬼子母神界隈とは違って、戦禍で焼失した地域ですが、それでも昭和で時が止まった光景には和むこと間違いなし。

 特に商店街の中程にある「雑二(ぞうに・雑司が谷2丁目の意)ストアー」は、向かい合う何軒かの長屋の間をアーケードにした、とても小さくてレトロな市場。かつては11軒あったお店も、今営業しているのは八百屋だけというのは寂しい限りです。

弦巻商友会の中程にある、レトロな「雑二ストアー」(画像:黒沢永紀)



 雑二ストアーの周辺は、今でも営業する店舗が一番多いエリアで、懐かしい調理パンやシベリアなども販売する、1923(大正12)年創業の「アカマル・ベーカリー」、製造工場が併設されて、せんべいづくりが見られる操業60余年の「小倉屋製菓」、そして看板の動物イラストが魅力的な地元の人気店「肉の大久保」など、昭和の商店街の原風景が残っています。

 商店街には仕舞屋も多く、けっして賑わってはいません。しかし、1軒のセブンイレブン以外にチェーン系の店舗が一切ない商店街には、住民とともに歩んで来た歴史が刻まれているようです。

 緑深い都会のオアシス、雑司が谷。鬼子母神でパワーをもらって霊園で苔掃し、ほっこり和む弦巻通りにお出かけになるのはいかがでしょうか。

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