江戸幕末の軍艦「咸臨丸」沈没150年 偉人たちを乗せて太平洋を駆け抜けた軌跡をたどる

  • 品川駅
江戸幕末の軍艦「咸臨丸」沈没150年 偉人たちを乗せて太平洋を駆け抜けた軌跡をたどる

\ この記事を書いた人 /

合田一道のプロフィール画像

合田一道

ノンフィクション作家

ライターページへ

幕末期、勝海舟や福沢諭吉らを乗せて太平洋を横断した軍艦「咸臨丸」。今もその遺物を捜し続ける人々がいます。ノンフィクション作家の合田一道さんが、咸臨丸の軌跡をたどります。

安政4年完成、全長49mの木造軍艦

 咸臨丸(かんりんまる)をご存じでしょうか。幕末期に勝海舟や福沢諭吉らを乗せて太平洋を横断した軍艦です。

 その軍艦は明治維新後、物資輸送船になり、航海中に沈没しました。それから150年。突如、脚光を浴びだしたのです。

東洋文化協会・編『幕末・明治・大正回顧八十年史. 第2輯』より「咸臨丸の米国訪問(部分)」(画像:国立国会図書館デジタルコレクション)



 東京新聞は2021年10月28日(木)の夕刊1面トップで、次の見出しとともに写真2枚、図付きで伝えました。

<幕末の証言者 咸臨丸どこに / 太平洋横断後、物資輸送船に… 謎の沈没150年 / 発見の夢 研究者ら諦めず>

 咸臨丸は江戸幕府がオランダに発注して、1857(安政4)年に完成した全長約49m、幅約8mの木造軍艦です。

 長崎の海軍伝習所の航海艦として用いられ、多くの人材を育てました。勝海舟、矢田堀景蔵、中島三郎助、鈴藤勇次郎、小野友五郎、浜口興右衛門、榎本武揚らがそうです。

 この時期、井伊直弼が幕府大老に就任。将軍の後継をめぐって幕閣が割れ、さらに安政の大獄(1858~1859年)が起こり、海軍伝習所も閉鎖になるなど国内は騒然としていました。

暴風雨に渡ったサンフランシスコ

 そうした中で日米修好通商条約調印のため、正使・新見豊前守正興以下がアメリカ軍艦ポーハタン号でアメリカへ向かいます。

 その随伴船として咸臨丸が副使・木村摂津守喜毅以下、教授方頭取(艦長)の勝海舟、通弁のジョン万次郎こと中浜万次郎、従者として福沢諭吉ら、それに日本海周辺で海難事故を起こし、船を失ったアメリカ軍人ブルック大尉ら11人が帰国のため乗船しました。

 咸臨丸は1860(安政7)年1月、浦賀を出帆。途中、暴風雨にたたかれながら、アメリカ軍人らの尽力もあって太平洋を横断し、2月26日、サンフランシスコ着。

東洋文化協会・編『幕末・明治・大正回顧八十年史. 第2輯』より「咸臨丸歓迎と乗組員一行(部分)」(画像:国立国会図書館デジタルコレクション)



 任務を終えて帰国したのは5月5日。これが日本人だけによる快挙とたたえられたのです。

 しかし咸臨丸に不幸が襲い掛かります。

 戊辰戦争の勃発により国内は真っ二つに割れ、榎本武揚は旧幕府艦隊の8隻に2千数百の将兵を分乗して江戸・品川沖を脱走しますが、その中に輸送船となった咸臨丸も組み込まれていたのです。

 咸臨丸は出航直後、嵐に遭遇し、ようやくたどり着いた駿府清水湊で新政府軍の艦隊に襲撃され、多くの死者を出し、船体は新政府軍に没収されるのです。

北海道木古内町沖で沈没

 戊辰戦争が終わり、咸臨丸は開拓使所有の運搬船となり、戦いに敗れた仙台藩亘理領の武士団とその家族401人を乗せて北海道小樽へ向かいますが、その途中、木古内町サラキ岬沖で座礁、沈没してしまいます。

 乗船者は全員救助され、別船に乗り換えて小樽に到着し、新天地となる札幌の白石と手稲に別れて開拓に尽くすのです。

 この海難事故は地元では早くから「この沖合で官船が沈んだ」と伝えられてきましたが、咸臨丸に関する資料はなく、当日の気象などの記録も不明で、その最期は謎とされました。

 地元ではやむなく浜辺に「咸臨丸ここに眠る」と標識を建てたのでした。

日蘭の合同調査、解明に兆し

 ところが1984(昭和59)年、咸臨丸のものと思われる鉄の錨(いかり)が発見され、後の研究で、遭難の原因はアメリカ人操船者の操船ミスによるものとの見方が有力になり、開拓使が意図的に公表を避けたという事実も明らかになりました。

 2016年、咸臨丸を建造したオランダの文化庁から東京海洋大学(港区港南)に調査の申し出があり、以来、同大の岩淵聡文教授(海洋文化学)との合同調査が進められています。

 2021年には日本船舶海洋工学会ふね遺産認定実行委員会から「ふね遺産」に認定されました。

「船の遺物を捜し出して」

 実は、筆者(合田一道。ノンフィクション作家)も早くから咸臨丸に着目し、2000(平成12)年には関連書籍を出版しました。その後、地元に「咸臨丸とサラキ岬に夢みる会」が組織され、「咸臨丸祭り」が生まれたのです。

 そして会員の労力奉仕などにより、殺風景だったサラキ岬にチューリップの花が植えられ、咸臨丸の模型が置かれ、新しい名所に生まれ変わりました。

咸臨丸の模型(左奥)とチューリップ畑(画像:合田一道)



 同会の舛野信夫会長は、

「咸臨丸は激動の時代を駆け抜けた歴史的な船。沖合を探索して、何とか船の遺物を捜し出してほしい」

と話しています。

 咸臨丸子孫の会は、文字通り咸臨丸に関わりのある子孫たちで組織された会で、毎年夏に催される「咸臨丸祭り」になると、東京周辺の会員たちがサラキ岬を訪れ“終焉の海”に熱い思いを寄せています。

 機会を見て、一度訪れてみてはいかがでしょうか。

関連記事