かつて上野駅に「高層化計画」があった! 高さはなんと300m、平成初期の夢はなぜ破れたのか

皆さんは、かつて上野駅の駅舎を取り壊して現代的なターミナルに建て替える計画が浮上したことがあったのをご存じでしょうか。そしてそれはなぜ実現しなかったのでしょうか。鉄道ライターの弘中新一さんが解説します。

駅舎は1932年に完成

 都心の各地にあるターミナル駅。近年、その多くは商業施設を兼ねたビルとなっています。そうしたなかで昔ながらの雰囲気を保っているのがJR上野駅です。

JR上野駅(画像:写真AC)



 上野駅の駅舎は1932(昭和7)年に完成。以降、高架ホームや新幹線ホームの建設などが行われています。現在の雰囲気は駅直結の商業施設「アトレ上野」が2002(平成14)年にオープンしてからのものですが、昭和の記録映像や映画に出てくる上野駅を見ても、基本的には変わっていません。

 ただそんな上野駅にも、駅舎を取り壊して現代的なターミナルに建て替える計画が浮上したことがあります。

 建て替えと周辺の大規模再開発が最初に浮上したのは、国鉄民営化から間もない1987年10月です。この計画は、当時JR東日本が構想していた建て替え計画と政府の住宅供給策が合体したものでした。

上野駅と西日暮里駅の間に住宅ビルが?

 そのプランは壮大です。まず上野駅は、40階程度の商業施設と住宅が入る高層ビルに建て替えられます。これだけならよくある再開発ですが、このときの構想は想像を超えるものでした。

上野駅と西日暮里駅の位置関係(画像:(C)Google)

 建て替えられた上野駅から西日暮里駅まで、約2.6km間の線路上に25階程度のビルを建設し、住宅として供給するというものだったのです。当時の新聞報道によれば、具体的な計画は次のとおりです。

「総工費一兆円をかけ、上野-西日暮里駅間二・六キロの駅舎・線路上を主に利用し、人工地盤を建設した上に、中規模住宅が入る二十五階建て程度の住宅ビルを五年程度で数棟(計五千戸分)配置する。また、公園や商業用スペースもその上に十分確保するというもの」(『読売新聞』1987年10月11日付)

 ほとんど荒唐無稽な計画のように見えますが、当時は実現可能性も強くありました。

 当時はバブル景気を目前に控えて土地価格が高騰、都内に不動産を確保するのが困難になっていた時期です。そのため、この計画に限らず公共用地の空中・地下を効率的に利用する構想はあちこちで出ていました。当時の資料を見ると、

・首都高速道路の上にビルを建設
・銀座の晴海通りに地下4階規模の地下街と通路を建設

なんていう計画もありました。

地上67階建て、高さ300mを超える建物

 さすがに事業費も膨大な計画が日の目を見ることはありませんでしたが、上野駅の建て直し計画は進捗(しんちょく)を見せています。

 1988(昭和63)年になると、JR東日本では地上60階・地下3階、テナントを14階までとし、その上に会議室やラウンジ、1000室規模のホテルの建設を計画しています。

 当時の駅ビル建て替えでもとりわけ規模の大きいもので、J東日本は「JR東日本の顔となる駅ビルを目指す」(『読売新聞』1988年3月16日付)としていました。

 この計画は1989(平成元)年9月になるとほぼ固まり、台東区の区議会でも提示されています。ここでは建設予定のビルはさらに規模を拡大していました。

「計画では、地下5階、地上67階建てで、高さ300.3メートル。延べ26万800平方メートル。現在、日本1高い池袋のサンシャインシティ(高さ240メートル、60階建て)や、新宿に建設中で91年度完成予定の新東京都庁ビル(243メートル、48階)を約60メートル上回る。駅ビル全体のデザインは、建築家の磯崎新氏に依頼しており、地上12階までが、デパート(売り場面積6万6400平方メートル)、レストラン、フィットネスクラブ、結婚式場などの商業フロア。美術館と劇場が14-16階に設けられる」(『朝日新聞』1989年9月27日付東京地方版)

 さらに、当時の報道では劇場や屋上ヘリポートも建設される予定とありました。

江東区豊洲にある「ららぽーと豊洲」(画像:写真AC)



 都庁よりも高いだけでなく、目を引くのはデパートの売り場面積です。売り場面積6万6400平方メートルは江東区豊洲にある「ららぽーと豊洲(6万2000平方メートル)」より、上野の代表的な大型店舗だった松坂屋上野店と丸井上野店を合計した面積(6万平方メートル)よりも巨大でした。

 この次点で計画は具体化しており、美術館はJRと台東区、東京芸術大学が第三セクターで運営。1996年にも完成するとされていました。

 JR東日本はホテルについて「上野公園を前庭としたハイグレードな滞在空間」、デパートは「既存のどのデパートにも負けない、質の高い商品を扱う」にするとしており、民営化間もない時期にあって社運をかけた巨大プロジェクトであるとされていました(『読売新聞』1989年10月8日付朝刊)。

実現しなかったワケ

 ところが、この計画は実現しませんでした。

 理由はさまざまです。地元では、駅ビルに買い物客や宿泊客も奪われるのではと計画を疑問視する声もありました。またそれより大きかったのが、経済情勢の変化でした。

 計画が立てられたのはバブル景気の真っただなかで、約2000億円とされた巨額投資も問題ないと判断されていました。しかし、バブル崩壊で事情が変わります。デパートやホテルの需要が鈍化したことに加えて、駅の既存運用部分を再開発するための事業費がさらに拡大することが明らかになったのです。

 こうして採算が合わないとされた計画は1995(平成7)年になると再検討・放棄が報じられるようになりました(『朝日新聞』1995年11月18日付夕刊)。その後、政府の主導による地下鉄や京成線を統合した「新上野ターミナル」の構想も登場しましたが(『週刊新潮』1996年1月11日号)、こちらも日の目を見ることはありませんでした。

JR上野駅(画像:写真AC)



 こうして上野駅は、既存の駅舎を活用する形でリニューアルが実施され、存続することになりました。結果、今でも東京の北の玄関口として独特の風情を保っています。駅周辺も建物の建て替えは進みましたが、依然としてほかの地域にはない風景があります。

 上野の街が変わらずに続いていることを考えると、この計画は実現しなくて幸運だったのかもしれません。

【画像】85年前の上野駅「広小路口」

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