昭和の戦前、なんと中央線に沿って「乗馬道」があった! いったいなぜなのか

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昭和の戦前、なんと中央線に沿って「乗馬道」があった! いったいなぜなのか

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内田宗治

フリーライター、地形散歩ライター、鉄道史探訪家

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かつて、中央線の代々木~千駄ヶ谷間の鉄道線路に沿って乗馬道があったのをご存じでしょうか。その理由について、地形散歩ライターの内田宗治さんが解説します。

長さは約750m、幅は約7m

 昭和の戦前、中央線の代々木~千駄ヶ谷間の鉄道線路に沿って、意外な道が延びていました。長さ約750m、幅約7mの乗馬道です。馬が走りやすいように、路面には砂と木くずを混ぜたものが敷かれ、乗馬道の両端には周回広場があり、馬つなぎ場、馬用の水槽も設けられていました。

乗馬道のある連絡道図。乗馬道『明治神宮外苑志』1937年より(画像:内田宗治)



 線路と乗馬道との間には高木が密に植えられていたので、電車から乗馬道はよく見えず、そのためあまり知られていなかったようです。

 東京で数多くの馬車が運行され、荷馬車向けも含めて馬が数多くいたのは明治30年代くらいまでです。大正時代を経て乗馬道が完成した1928(昭和3)年頃では、町中で馬の姿はほとんど見かけなくなっていました。なぜここに乗馬道がつくられたのでしょうか。

 その理由は、この道が明治神宮北参道入り口と神宮外苑(がいえん)西北端を結ぶ連絡道路だったためです。

 そして皇族の閑院宮載仁(かんいんのみや ことひと)親王が、当時としても突拍子もないこの乗馬道案を強く主張したためです。閑院宮は皇族軍人として活躍し、当時陸軍元帥にまで上り詰めていました。絶大な強さの発言権をもっていたわけです。

実は歴史の浅い明治神宮

 乗馬道の立地を見るうえで、明治神宮(内苑〈ないえん〉)と神宮外苑の歴史を確認しておきましょう。

明治神宮(画像:写真AC)

 明治神宮は、内苑と外苑とに分かれます。ともに明治天皇の崩御後、その遺徳を永く後世に伝えるために計画されたものです。

 一般に明治神宮と呼ばれるのは、原宿駅に隣接して広がる内苑部分を指しています。明治天皇および昭憲皇太后(明治天皇の皇后)を祭神として造営された神社です。

 境内に足を踏み入れるとうっそうとした森が広がっているので、古くからある神社だと思われがちですが、1920(大正9)年の創建です。都内の神社としては、かなり新しいものといえましょう。

連絡道路の総延長は約1200m、幅は約36m

 神宮外苑は、宗教施設ではなく公園として計画され、神宮外苑競技場(現・国立競技場の地)、神宮球場、聖徳記念絵画館などが1924(大正13)年から1926(昭和元)年にかけて建設されました。

 この明治神宮内苑と外苑とをつなぐのが前述の連絡道路です。乗馬道がない部分も含めた総延長は約1200m、幅は約36mに及び、その幅の中に乗馬道のほか車道、遊歩道、歩道、植樹帯が並行してつくられていました。

「明治神宮内外苑連絡図」。『明治神宮外苑志』1937年より(画像:内田宗治)



 当初の計画では、この連絡道路に乗馬道はなかったのですが、閑院宮は次のように主張しました。

「明治天皇は馬術に対するご趣味が深く、馬の品種改良にも熱意を注がれた。古来、多くの神社では馬場が設置されている。現代に合わせた乗馬道を明治神宮の施設に設置するのは、明治天皇を追慕するのにふさわしい」

 この乗馬道がどれだけ利用されたかは不明ですが、竣工(しゅんこう)式の日、閑院宮は馬上の人となり、武官ほか騎馬参列員を従えて乗馬道を往復しています。

乗馬道をしのばせる山手線裏参道ガード

 乗馬道を含んだ連絡道路の地は、現在首都高速道路となっています。前回1964年の東京オリンピック開幕にあわせて同年8月に開通した区間です。

 そのため乗馬道の痕跡は消滅しているのですが、1か所それをしのばせてくれるものが現存します。首都高速道路が山手線をまたぐ地点のすぐ近くにある山手線裏参道ガード(代々木~原宿間)です。

山手線原宿~代々木間の裏参道ガード(2021年8月、内田宗治撮影)

 このガードは、他の山手線ガードに比べて、立派なつくりになっているのが特徴的です。重厚なれんが積み(に見える)で、ガードの両端には、背の低い親柱のようなものも建てられています。

 山手線電車の走る複線部分と埼京線電車などが走る複線部分(かつての貨物線)のガードがほぼ同じつくりなのも気になります。

丹念にれんがが貼られている理由

 この区間の開業は1885(明治18)年。当時は山手線の土手を横断する形で踏切となっていました。

 複々線化が完成したのが1925(大正14)年で、その工事の際、連絡道と直結する裏参道をまたぐガードとして、旧来ある線路部分の造り替えも含めて立派に建造されたと推定できます(乗馬道は同ガードのすぐ千駄ヶ谷寄りのところで終了)。

 山手線のガードや高架橋は、新橋~有楽町間など明治末年頃までの建造区間のものは重厚なれんが積み、神田付近など大正時代半ば頃建造のものはコンクリート造りでれんが貼り、秋葉原付近など大正時代末期頃建造のものはコンクリート造り(外見もコンクリート)となっています。

千駄ヶ谷駅前の頭上を行く首都高速道路。その下がかつての乗馬道だった(2021年8月、内田宗治撮影)



 裏参道ガードは、外見もコンクリートのガードがつくられていた時代のものですが、乗馬道も設けられていた連絡道と直結するため、丹念にれんがを貼った造りとなりました。

 東京には意外な事物があったことを今に伝えてくれる建造物のひとつです。

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