土地の風情はいずこへ? 東京の「昔ながらの町名」がことごとく消えてしまった理由

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土地の風情はいずこへ? 東京の「昔ながらの町名」がことごとく消えてしまった理由

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猫柳蓮

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東京にはかつて歴史のある地名が多く存在していました。しかし今やほとんど残っていません。一体なぜでしょうか。フリーライターの猫柳蓮さんが解説します。

歴史ある町名の多くが消えた理由

 原宿・御徒町・汐留と聞いて、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。恐らく駅名でしょうか。しかしこれらは、かつて歴史ある町名でした。町名の消滅後も駅名として残っているのです。

 歴史ある町名の多くが消えてしまった大きな理由、それは1962(昭和37)年に「住居表示に関する法律」が施行されたことです。

 この法律は、それまで町名・字名と地番で表示されていた住所を整理して

・町名
・字名
・街区符号
・住居番号

で表示することを目的としていました。具体的には、

○○町○○1234番地

○○町1丁目2番3号(あるいは、○○町1丁目1234番地)

といったイメージです。

都市化により生まれた弊害

 日本ではもともと、字名と地番で住所を表示するのが一般的でした。ところが都市化が進むと問題が起こります。

東京都内の土地のイメージ(画像:写真AC)



 土地の区画が変更されたり、田畑や山林だったところに道路が敷かれて宅地になったりすると、

・土地の並ぶ順序と地番が一致しない
・境界が複雑になる

という事例が見られるようになったのです。

 さらに、道路に囲まれた四角い区画の一部が別の町になったり、住んでいる人も境界をよく把握していなかったりする事態も起こりました。また田畑から宅地になった地域では、家の建つ土地が実際にはいくつもの町域に分断されているという事例もありました。

 そこで1964(昭和39)年の東京オリンピックを前に、改革のひとつとして実施されたのが住居表示だったのです。

消えた多くの町名への思い

 実際のところ、23区内に限っても一度に全て実施できませんでした。実情に併せて、町域の再編方法、町名の取り扱い方などの検討が行われたからです。

 この住居表示の実施で誕生したのが、JR山手線の大塚駅を挟んだ豊島区の南・北大塚です。

 大塚駅はもともと文京区の大塚に駅を設ける予定でしたが位置が移動、駅名は予定と変わらず大塚となりました。しかし大塚駅のあるのは巣鴨7丁目(当時)。大塚駅も大塚と呼ばれていますが、実際には大塚という地名はありませんでした。そこで、豊島区では1970(昭和45)年1月に住居表示を実施。新たに南・北大塚の町名を新設し、整理しました。

大塚駅周辺の様子。線路上に北大塚、下に南大塚を冠した店舗がある(画像:(C)Google)



 このほか、住居表示において最も著名な町名を採用し、周辺を統合。1から順に○丁目とすることが行われました。

 この過程で、原宿駅で知られる原宿は神宮前1丁目に、御徒町駅のある下谷仲御徒町1丁目は上野5丁目に統合されていきました。新宿区の旧牛込区では唯一、町名保存運動が盛んに実施され、今でも多くの旧町名が存続しています。

 郵便物のみならず、宅配サービスが盛んに行われている現在の状況を見ると、住居表示は正しかったといえます。しかし消えた多くの町名にはせる思いもあります。

菊畑から命名された地名も

 さて、そんな町名をいくつか紹介していきましょう。

●小石川初音町(現・文京区小石川1~2丁目)
 江戸時代に小石川白山御殿付近から小石川指ヶ谷町にかけてホトトギスが一番早く鳴き、「初音の里」と称されたという情緒ある地名です。現代ならば初音ミクのファンが喜んで住みそうです。

●本郷菊坂町(現・文京区本郷4~5丁目)
 現在も菊坂は本郷かいわいを散歩する時に必ず通る坂道ですが、もとは町名としても存在していました。菊坂は、もとはこの一帯に菊畑があったことに由来します。

1947(昭和22)年発行の地図(左)と現在の地図。菊坂町の記載がある(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)



●湯島天神町(現・文京区2~3丁目)
 湯島は現在も続く町名ですが、かつてはもっと情緒ある町名でした。湯島天神町は1~3丁目まで。さらに湯島梅園町・湯島切通坂町という町名もありました。

●飯倉町(現・麻布台、東麻布など)
 飯倉町は1~6丁目まで存在し、さらに飯倉狸穴町や麻布飯倉片町が存在していましたが、住居表示の実施で「飯倉」の名称はすべて消滅しました。外苑(がいえん)東通りと桜田通りが交わる飯倉交差点などの地名でわずかに存続しています。

●麻布市兵衛町(現・六本木1~4丁目、虎ノ門4丁目など)
 麻布市兵衛町は1~2丁目がありましたが、住居表示によって1丁目は大部分が六本木1丁目、一部が虎ノ門4丁目に、2丁目は六本木1、3、4丁目に分割されました。

●日本橋両国(現・中央区東日本橋2丁目)
 両国は現在は墨田区の地名となっていますが、もともとは現在の中央区側にあった両国広小路から始まった地名です。ようは本家なのですが現在は消滅してしいます。わずかに両国郵便局などの名称が中央区に残ります。

もともと月島と勝どきは同じ町だった

●芳町(現・日本橋人形町1・3丁目)
 もともとは江戸時代から存在した地名ですが、明治に1~2丁目ができました。人形町は江戸時代には俗称で昭和になり町名に採用されたのですが、人形町のほうが地名度があったのか統合されることになりました。

●西仲通1~12丁目(現・中央区月島1・3、勝どき1・3・5丁目)
 このほか、西河岸通1~12丁目、月島通1~12丁目、東仲通1~12丁目など月島と勝どきは現在とは違い東西を走る通りにそって細長い町名が存在していました。もともと月島と勝どきは同じ町だったことを示すものでした。

●花園町(現・新宿区新宿1丁目)
 もともとは、この地域に鎮座する花園神社に由来する地名でしたが消滅。わずかに小学校の名前などに残っています。新宿区内では今でも「花園のあたり」で通用します。

1947(昭和22)年発行の地図(左)と現在の地図。花園町の記載がある(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)



●東大久保(現・新宿区新宿5~7丁目、余丁町)
 もともと、大久保は現在の大久保駅周辺だけではなく東西のある広い地名で、東大久保には1丁目と2丁目がありました。新宿1~7丁目までの設定はあまりに広く、町名の歴史をほぼ塗りつぶしてしまいました。

旧町名の由来も調べよう

 このように旧町名にはその地名が採用されるに至る歴史的経緯や、地域の特色などが織り込まれていました。

 しかし住居表示では効率が重視されたため、あまり顧みられることはありません。

 街歩きのときには旧町名の由来も調べておくと、より深く歴史を感じることができるのでお勧めです。

 個人的には特に、新宿区で存続した古めかしい名前が消えたのにはもったいなさを感じます。

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