未公開写真で探る「昭和の東京」 あなたはいくつ分かる?【全3問】

  • 新宿駅
  • 日本橋駅
  • 渋谷駅
未公開写真で探る「昭和の東京」 あなたはいくつ分かる?【全3問】

\ この記事を書いた人 /

野村宏平のプロフィール画像

野村宏平

ライター、ミステリ&特撮研究家

ライターページへ

今回はクイズ3問です。写真は東京都内の古い風景。いったいどの場所かお分かりでしょうか。ライターの野村宏平さんが解説します。

東京の古い風景写真、どこかわかる?

 わが家のアルバムを整理していたら、古い風景写真がいくつか出てきました。いまとなっては訪れることのできない失われた建物も写されているので、時代の記録として、そのうちの何枚かをここに公開しようと思います。

 ただ、そのまま紹介するのも芸がないので、クイズ形式にしてみました。まずは写真だけお見せするので、どこの街を写したものなのか、ちょっと考えてみませんか?

●第1問

第1問の写真(画像:野村宏平)



 最初の写真は、1955(昭和30)年1月に撮影された、東京の有名な場所です。建物は現在とまったく違いますが、幹線道路や交差点の位置は基本的に変わっていないので、ピンとくる人も多いのではないでしょうか。

第1問の答えは……

答えは、渋谷駅のハチ公口前です。

第1問の答え。2021年の渋谷駅ハチ公口前からSHIBUYA109方面を望む。右からセンター街入り口、大盛堂書店、三千里薬品、もんじゃ焼きマスダ亭、渋谷松川本店(うなぎ)、渋谷西村フルーツ、マツモトキヨシ、センター街入り口、みずほ銀行……と並んでいる。(画像:野村宏平)

 当時、渋谷で一番高かったという東急東横店西館の屋上から撮影したものでしょう。このビルは1954年、玉電ビルを11階に増築し、東急会館として生まれ変わりましたが、2020年に閉館しました。

 手前が現在のスクランブル交差点になります。ビルがほとんどなく、低層の商店がズラリと並ぶ街並みは隔世の感がありますが、写真中央下に見える西村果実店は渋谷西村フルーツ道玄坂本店(渋谷区宇田川町)として、同じ並びの第一銀行はみずほ銀行として、現在も同じ場所で営業しています。

 西村果実店の右には大盛堂書店(同)が見えます(バスが3台並んでいる前)。大盛堂書店は昭和40年代、公園通りの巨大店舗に移転しましたが、現在はこの写真と同じ場所で営業しています。

細い路地が入り組んだ街並み

 大盛堂書店といえば、渋谷センター街の入り口にある本屋さんとして知られていますが、当時の写真を見ると、その場所には毛糸店などが並んでいて奥に入る道が見当たりません。

 当時は宮田家具店と第一銀行のあいだ、もしくは写真右端に見える靴の富士屋の脇から奥に入ることができたようです。富士屋脇の道はその後、ビルが建ってふさがれてしまいましたが、第一銀行脇の道は現在も残っています。

 この裏通りには、戦前からすでに歓楽街が形成されていましたが、当時は細い路地が迷路のように入り組んでいました。それが昭和30年代に区画整理され、「宇田川有楽街」を経て「渋谷センター街」と呼ばれるようになったといいます。

 左方向へと伸びている道路は道玄坂です。Y字路の角地が現在、SHIBUYA109(同区道玄坂)がある場所ですが、当時は戦後の闇市の雰囲気がまだ残っており、この三角地帯にはバラックの商店が密集していました。

 109の先──現在、ヤマダデンキLABI渋谷店(同)があるあたりにも「すずらん横丁」と呼ばれるバラックの商店街がありましたが、1950(昭和25)年頃、その一画に、米兵相手のラブレターを英語で代書する店が現れました。

 それをモデルに、作家の丹羽文雄が「恋文」という小説を発表し、1953年に映画化されたことから、「恋文横丁」と呼ばれるようになったといいます。現在、109とヤマダデンキのあいだには、「恋文横丁 此処にありき」と記された記念碑が立っています。

恋文横丁の記念碑。1979年、木製の碑(左)が建てられたが、根元が腐り、倒れかけたため、2017年、ステンレス製で再建された。



 Y字路から奥に伸びているのが現・文化村通り(旧・東急本店通り)ですが、当時は栄通りという名称でした。右側に見える白い建物は大映の映画館、突き当たりに見えるのは渋谷区立大向小学校です。この小学校は1964年に移転し、跡地に東急百貨店本店とBunkamuraがオープンすることになります。

第2問の撮影時期は1966年

●第2問

第2問の写真(画像:野村宏平)

 こちらは1966年に撮影された写真ですが、やはり東京の有名な街です。ランドマーク的な建築物がいくつか写っているので、それに気づけば場所を特定することは難しくないでしょう。

第2問の答えは……

 これは、京王百貨店新宿店(新宿区西新宿)の屋上から西方を望んだ写真です。

第2問の答え。2021年、新宿駅南口の甲州街道上から西方を望む。正面に見えるのが、ガスタンク跡地に建てられた新宿パークタワー(画像:野村宏平)



 よく見ると、風に翻る旗に京王百貨店の王冠マークが描かれています。現在は周囲にビルが立ち並び、屋上から遠景を望むことは難しくなってしまいましたが、当時はかなり見晴らしが良かったことがわかります。

 正面奥に見えるガスタンクは1912(明治45)年に建設され、長い間、西新宿のランドマーク的存在になっていましたが、1990年に取り壊され、跡地に東京ガスの新宿パークタワーが建てられました。

右手の大きなプールのような場所とは

 その右手に見える大きなプールのような場所は淀橋浄水場です。1898年、東京市にきれいな水道水を給水する目的で造られました。

 この写真が撮影された1年前の1965年に廃止されましたが、その跡地が、京王プラザホテルや住友ビル、三井ビル、東京都庁舎などの超高層ビルが林立する副都心として再開発されたことは周知のとおりです。

 写真左手に見える円筒形の建物は1955年に完成した文化服装学院の円形校舎で、これも新宿(住所は渋谷区代々木)のランドマークでしたが、1997年に解体され、新校舎に建て替えられました。

 手前は現在、家電量販店や飲食店がひしめき合うエリアで、右下の「整理整頓」の標識がある工事現場が、ヨドバシカメラ西口本店(同)のあたりと思われます。その裏に三井信託銀行があったり、浄水場の手前に「東京スターレーン」というボウリング場があったりするのが目を引きます。

第3問の撮影時期は1954年

●第3問

第3問の写真(画像:野村宏平)

 1954年、東京のある交差点で車窓越しに撮影されたと思われる写真ですが、特徴的な建物が写っているわけではないので、場所の特定はちょっと手間取るかもしれません。そのかわり、文字情報が豊富なので、そこから答えを導き出すことができるはずです。

手掛かりは都電の案内板

 この写真で大きな手がかりになるのが、「小川町・九段・早稲田 方面行のりば」と記された都電の案内板です。当時、この3か所を経由していたのが、15系統と呼ばれた路線です。茅場町─日本橋─大手町─小川町─神保町─九段下─飯田橋─早稲田─高田馬場駅前というのが、そのルートでした。

 また、写真左手には地下鉄の入り口が見えます。1954年当時、東京の地下鉄は銀座線と丸ノ内線の池袋─御茶ノ水間だけしかありませんでした。このどちらかの沿線で、都電15系統が走っていた場所となると、日本橋が該当します。

 さらに写真をよく見ると、左の2階建てのお店に「酒軽食 ヤナギヤ」という看板がかかっています。この建物は現存しませんが、現在、日本橋交差点の南西側には柳屋ビルディング(1964年完成)が建っています。

第3問の答えは……

 これらのことから、日本橋交差点から西方を望んだ写真ということがわかります。写真の正面奥が呉服橋、大手町方面になります。

第3問の答え。2021年の日本橋交差点。左側のビルが柳屋ビルディング(画像:野村宏平)



 ちなみに柳屋ビルディングのある場所は、16世紀後半、明国から渡来し、徳川家康の信任を得て重用された漢方医・呂一官(ろいっかん)が、1590(天正18)年に家康から御朱印地として拝領した由緒ある土地だといわれています。

 呂一官はここで、紅、おしろい、香油などを製造販売する「紅屋」を創業。のちに「柳屋」に改号し、19世紀からは近江商人の外池(といけ)家が事業を継承して現在に至っています。

関連記事