かつては「町田は神奈川」だった
東京都町田市は、約43万もの人口を抱える都内屈指のベッドタウンとして発展しています。町田市の中心には小田急電鉄が町田駅を構えており、同駅から国内随一のターミナルとなっている新宿駅までは1本、所要時間は30~40分程度です。
しかし、新宿駅と町田駅の間には神奈川県川崎市があります。
町田市から東京都心部へと出るには、必ず神奈川県を通過しなければなりません。そうした地理的な事情もあり、インターネット上では「町田は神奈川」というジョークが定着しています。広く流布している「町田は神奈川」というジョークですが、明治維新後に町田は神奈川県に属していました。
水源問題と自由民権運動
町田が東京府に属するのは、1893(明治26)年まで待たなければなりません。
町田が神奈川県から東京府へと移管された理由は、水道をめぐる問題が大きく影響しています。東京府内に供給される水は、江戸時代から玉川上水を頼りにしてきました。その流域は町田が属する南多摩郡を通ります。南多摩郡は神奈川郡に属していために町田も神奈川だったわけですが、流域の南多摩郡が東京府外にあることは水源の管理上で不都合が生じるとされたのです。
上下水道が整備されている現在とは異なり、当時は水が貴重な“資源”でした。水源管理の諸手続きをスムーズにする観点から、町田は東京府へと移管されたのです。
水道問題のほかにも、町田が東京へと移管された理由があります。町田は、自由民権運動が盛んな土地でもありました。当時の神奈川県知事は自由民権運動を疎ましく思っていたこともあり、町田を移管することで厄介払いできると考えたのです。
水源問題と自由民権運動というふたつの理由により、町田は東京府へと帰属を変更しました。
ジョークが現実に?
以降、町田は東京の都市として発展してきました。しかし、その道のりは決して平たんではありませんでした。
大正期には、再び町田を神奈川県に戻すことが検討されました。また、八王子などを中心にした多摩の市町村を東京府から分離し、新たに多摩県を設置する案も検討されています。自治体の枠組みをめぐる議論に翻弄(ほんろう)された町田ですが、そうした“危機”も切り抜けて現在に至ります。
町田が東京に属してから長い歳月が経過しましたが、「町田は神奈川」といったジョークが根強く残っています。
その背景には、周囲を神奈川県に囲まれていること、町田市街地を走るバスが神奈川中央交通であること、高速道路の最寄りのインターチェンジが横浜町田となっていることなどが挙げられます。
そして、「町田は神奈川」というジョークが現実とも受け取れる局面が出てきています。
鍵は境川の流路
河川を境にして、町田市と相模原市の境界線が明確になっているなら問題は深刻ではありません。
しかし、この河川付近は東京都町田市と神奈川県相模原市の境界線が入り組み、町田市と相模原市の土地が混在しているのです。
かつての境川は現在よりも蛇行しており、そのために河川の氾濫が頻発していました。そうした水害を防ぐため、行政は歳月をかけて河川を改修しました。
その結果として、境川の流路が変わります。それが町田市と相模原市が入り組む状態を生んでしまったのです。
町田市と相模原市が入り組む状態は、ゴミの収集や小学校の学区などで居住している住民に不便を生じます。自治体が異なれば、行政サービスが変わります。また行政側にとっても事務が煩雑化し、負担増になっていました。
12月1日から一部が相模原市へ
そうした状況を解消するべく、町田市と相模原市は1999(平成11)年から段階的に境界線の変更を進めてきました。町田市と相模原市の境界変更は、9次にわたる長期計画として取り組まれています。
町田市と相模原市の境界はこれまでにも変更されてきましたが、2020年4月1日(水)にも町田市議会が第7次の境界変更を議決しています。
この議決により、2020年12月1日(火)には町田市の一部が相模原市へと帰属を変更する予定になっています。
今回の境界変更は第7次で、残り2次の境界変更が予定されています。第9次にわたる境界変更の作業が完了する時期は、今のところ未定です。
いずれにしてもこの変更作業によって、入り組んでいた町田市と相模原市の境界線が整理されます。
境界変更の作業が完了した折、名実ともに町田市は東京になります。インターネット上で「町田は神奈川」というジョークは鉄板ネタになっていますが、それは過去のものになってしまうかもしれません。