昭和7年創業 両国「下総屋食堂」 かつては都内に500軒、現存わずかな都指定「民生食堂」の面影を訪ねる

かつて都内に多く存在していた「民生食堂」。その役割と現在もわずかに残る同食堂のひとつ「下総屋食堂」の歴史について、都市探検家で軍艦島伝道の黒沢永紀さんが解説します。


かつては、都内に513軒あった民生食堂

 時は戦時下。食糧難の時代を迎えた日本では、米の配給制と同時に、食堂も登録制に。ひとりひとりの米の量を記録する「米穀通帳」が発行され、単身赴任者など、主に外食で暮らす人は、米穀通帳を提示して「主要食糧選択購入切符」、いわゆる「外食券」を交付してもらい、登録された食堂で食事をしていました。

懐かしい東京都のマーク入り東京都指定民生食堂のプレートが貼られたおかず棚。上段にはなぜか懐かしい怪獣のソフビが(画像:黒沢永紀)

 戦後になると外食券が高値で取引されたり、闇市では外食券がなくても雑炊を供する「雑炊食堂」ができたり、徐々に物資供給が安定するようになったりと、外食券の必要が徐々になくなったことで、1951(昭和26)年に外食券制度が廃止に。この時の外食券食堂が、都に指定されて「民生食堂」となります。都が販売価格を指定するなどして、三食を外食で暮らす人たちの食生活の安定を目的とした制度でした。

 下総屋食堂は、戦前から営業しているので、一般食堂から外食券食堂、そして民生食堂という歴史をつぶさに歩んできたことになります。かつて都内に513軒あった民生食堂も、いまではほとんどが姿を消し、営業しているお店はほんのわずかです。

 2019年現在、下総屋食堂は2代目の女将さんと3代目の息子さんが切り盛りし、その味付けは初代からの直伝です。関東にしては珍しい少し甘めの味付けは、初代が関西のご出身だからでしょうか。

柳橋の料亭が川の向こうにあった光景

 2代目の女将さんが下総屋へ嫁いだのは1954(昭和29)年のことでした。すでに民生食堂になっていた時代ですが、それでも昭和30年代の中頃までは、外食券を持って食べに来るお客もいたようです。

「お嫁に来た頃は、コンビニも無いし、立ち食いも無いし。朝7時からお店を開けてたけど、すぐにいっぱいでしたよ」と思い出を語ってくれます。「その頃は、両国の駅前も原っぱでさ、向こう岸へ渡るポンポン蒸気の乗り場があったね~」

「川の向こうっかわは柳橋の料亭がずーっと並んでいて、夜になると綺麗でね。こっちからみえるんですよ。芸者さんがお酌するのがさ。で、夏なんかは川床(かわどこ・かわゆか。川面へつき出すようにして設けられた仮設の席)がでて、夜、暗くなるとね、小舟で新内流しが来て。あれはなんとも言えない雰囲気ですね」

 戦後の両国に遺っていた東京の原風景が目に浮かびます。

夫の他界で1年休業も、常連のエールで復活


【写真】懐かしい、そしてなぜか落ち着く……都内にある路地裏の風景(8枚)

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