今まで知らなかった! 相撲界を「角界」、歌舞伎界を「梨園」と呼ぶワケ
テレビを見ていると相撲界を「角界」、歌舞伎界を「梨園」と呼んでいますが、いったいなぜこのような名称なのでしょうか。フリーライターの犬神瞳子さんが解説します。ニュースでよく耳にする「角界」「梨園」 日本の伝統文化である相撲や歌舞伎は、多くのファンに愛されています。また、東京には両国国技館(墨田区横網)や歌舞伎座(中央区銀座)といったシンボリックな施設があるため、東京に住んでいる人であれば1度くらい足を運んだことがあるでしょう。 相撲の稽古をする力士のイメージ(画像:写真AC) また相撲ファンと歌舞伎ファンには熱くて親切な人が多いため、こちらに知識がなくても興味さえあれば、いろいろと教えてくれます。そのため、想像されている以上に「ハードル」は低いと言えます。 ところで、ニュースを見ていると、相撲界と歌舞伎界のことを ・角界(かくかい、かっかい) ・梨園(りえん) と呼んでいることに気づきます。なぜこのような言葉が使われているのか、皆さんはご存じでしょうか。 「角」の字に込められた意味 まず、角界から説明しましょう。 角界とは、相撲をかつて「角力」と記していたことに由来しています。読み方は「かくりき」ではなく「すもう」です。これは江戸時代ごろに起こった当て字読みで、元は「角」の字の意味から来ています。 墨田区横網にある両国国技館(画像:写真AC) 漢和辞典『新字源』(角川書店)によると、「角」という字には「動物の角(つの)」のほか、 ・きそう ・あらそう ・くらべる など、多くの意味があります。 また角力には ・力をくらべる ・武力で勝敗を決する という意味もあり、ここから角力と書いてすもうと読むことが広まったと考えられます。 バトル漫画などで、勝負強いだけでなく情にあつい人物を「漢」と書いて「おとこ」と読むのをよく見かけます。角力(すもう)もこれと似たイメージで、なんとなくふさわしい字をあてたのが次第に定着していったのでしょう。 相撲は昔、格闘技だった? もうひとつ重要なのが、かつての土俵の形が四角だったことです。 日本の国技である相撲は、神話時代から存在していたとされます。例えば『古事記』の葦原中国平定(あしはらのなかつくにへいてい)という説話では、高天原(たかまがはら)から遣わされた建御雷神(たけみかづちのかみ)と建御名方神(たけみなかたのかみ)が争っており、このときのふたりの力比べが相撲の起源とされています。 『日本書紀』(画像:中央公論新社) また『日本書紀』では、垂仁(すいにん)天皇の時代に野見宿禰(すくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)が「●(=手へんに角)力(すまい)」で戦い、勝った野見宿禰が土地を賜った記述があります。 ただ、このときの戦いは野見宿禰が当麻蹴速の腰を踏み折って勝ったとあり、相撲というより今の格闘技の戦闘技術に近いものがあります。 江戸時代にスポーツ化江戸時代にスポーツ化 平和な江戸時代になると、これがスポーツ化して興業が打たれるようになります。 初期の相撲は戦国時代の気風もあって乱暴そのものでした。土俵はなく、力士たちが円陣を組んで座り、そのなかで相撲を取るのです。ルールも明確ではなく、けが人は当たり前。勝敗をめぐってけんか騒ぎもしょっちゅう起きていました。あまりに騒動が多いため、1648(慶安元)年に幕府は相撲の興行を禁止しています。 これは貞享(じょうきょう)年間(1684~1688年)にようやく解除されますが、この間にルールが定められます。 ここで登場したのが土俵です。今の土俵は円形ですが、当時は四角い土俵もあったことが井原西鶴の『本朝二十不孝(ほんちょうにじゅうふこう)』の挿絵からもわかります。 相撲の土俵(画像:写真AC) どうもこの四角い土俵を使うことも多かったようで、日本各地では行事で四角い相撲を再現する事例もあります。よく知られるのは岩手県の南部藩でおこなわれていたもので、土俵は一辺4.24mの正方形。四隅に柱を立て、屋根を支えます。ルールも寄り切りはなくモンゴル相撲と同じで、背中が地面につくと負け。この相撲は長く存続し、岩手県内の草相撲では1955(昭和30)年まで、四角い土俵が使われていました。 このようなことから、四角い土俵になじみがあったことを考えると、当て字に「角」の字を使ったのは、単に文字の意味だけではないことも想像できます。 なお今では「相撲」の漢字が使われていますが、沖縄に伝わる格闘技は「沖縄角力」と書いて「おきなわずもう」と読みます。 知識人の言葉遊びがルーツか知識人の言葉遊びがルーツか 次に「梨園」の由来ですが、中国の歴史書にあります。 唐(618~907年)の時代を記した『新唐書(しんとうじょ)』には、音楽や芸能に関する出来事をまとめた「礼楽志」という項目があり、唐の第9代皇帝・玄宗が梨の木のある庭園で音楽や舞踊を自ら教えたと記されています。 唐の時代は西域からの新しい文化の流入もあり、音楽が栄えた時代でした。そのなかでも玄宗は音楽を愛し、自らも歌をつくるほどでした。この歴史的事実を元として、江戸時代には梨園という言葉が使われています。 もっとも、江戸時代には現代より漢文の素養が重視され、一定程度の教養がある人は、中国の歴史書の細かい記述まで知っており、文章を書く際によく使っていました。 1901(明治34)年に作られた旧制第一高等学校(現東京大学教養学部など)の寮歌「アムール川の流血や」には、「末は魯縞(ろこう)も穿(うが)ち得で」という歌詞があります。これは「強い弓で射た矢も、勢いが衰えて、魯に産する薄絹すら貫けなくなる」という意味で、元ネタは歴史書『漢書』の「韓安国伝」に記されています。 中央区銀座にある歌舞伎座(画像:写真AC) このようなことから察するに、音楽や芸能について漢文の素養のある人なら知っていて当然ということで「梨園」という言葉を使ったところ、定着したのでしょう。 角界も梨園も最初はちょっとした遊びを込めて使った言葉であり、それが定着するとは、最初に考えた人も思いもよらなかったのではないでしょうか。
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