東京大田区の住宅地に眠る、今はなき「戦国城跡」 痕跡探しの手掛かりとなる“必要4条件”とは

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東京大田区の住宅地に眠る、今はなき「戦国城跡」 痕跡探しの手掛かりとなる“必要4条件”とは

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永嶋信晴

歴史ライター

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東京23区にある城跡といえば、誰もが思い浮かべるのが「江戸城」。しかしそれ以外はほとんど知られていません。遺構の残っていない城跡を探す方法について、歴史ライターの永嶋信晴さんが解説します。

痕跡なき戦国の城の楽しみ方

 東京23区にある城跡といえば、誰もが思い浮かべるのが江戸城。国内最大の広さを誇る大城郭ですが、ほかには? と聞かれると、首を傾げる人も多いのではないでしょうか。
 
 しかし、東京23区内にもかつては数多くの城が存在しました。残念ながら、それらの痕跡は、一部を除いてほとんど残っていません。立派な遺構が数多く残っている関西の諸都市に比べると、東京23区は、江戸城を除けば城跡の空白地帯とも言えるでしょう。

 筆者(永嶋信晴。歴史ライター)も長い間、取り残されたような気持ちを感じていました。そんな人たちに、今回は、痕跡が残っていない戦国の城の楽しみ方を提案したいと思います。

大田区南馬込にある萬福寺(画像:永嶋信晴)



 ただ、何もないところに出かけて行って、何が面白いのかと思われるかもしれません。

 しかし、何もないと思っていた場所に、ちょっとした城の痕跡や当時のイメージを膨らませるアイテムを見つけたとき、立派な土塁(どるい。堤防)や空堀を見るのとは違った面白さを感じることができるのです。

 それは、美しい写真を眺めて楽しむというより、白い画用紙に、自分で想像しながら絵を描く楽しさに似ています。いくらでも、自分の頭の中でオリジナルの城のイメージを膨らませることができるのです。

 とは言え、抽象的な言葉をいくら重ねても、そんな不思議な感覚を理解していただくのは難しいかもしれません。そこで、今回は事例研究として、かつて大田区に存在したという戦国の大城郭「馬込城(まごめじょう)」をご紹介しましょう。

戦国の城跡を見極めるポイントは

 初めに述べておきますが、馬込城跡へは、最初から目的を持って訪れたわけではありません。馬込文士村を巡る文学散歩の途中に、戦国の城として最適な場所を見つけ、後になってから城跡だったと気づいたのです。

 その場所とは、大田区南馬込にある萬福寺(まんぷくじ)。

 境内には、大田区の文化財に指定された仏像や板碑、馬具などを紹介する解説板が並び、地元屈指の古刹の雰囲気が漂っていました。

古刹の雰囲気が漂う萬福寺境内(画像:永嶋信晴)



 この寺を開基した人は、鎌倉幕府の設立に大きな力を果たした梶原景時(かじわら かげとき)です。和歌をたしなみ、「武家百人一首」にも選出されるほど、当時の東国武士には珍しく教養があった人だと言われています。

 境内の片隅には、景時の墓がひっそりと立っておりました。

 ただ、墓石にある「梶原三河守景時同助五郎景末」は後北条家の家臣と推測され、景時の子孫の可能性もあるそうです。

 本堂にお参りし、境内を巡るうちに、『ゲゲゲの鬼太郎』の妖怪アンテナならぬ“戦国の城アンテナ”が反応しているのに気づきました。

 ちなみに、私の城跡アンテナが反応するのは、主に次の条件に触れたときです。

見晴らし、高台、崖、近くに川……

1. 見晴らしのよい高台
2. 台地のまわりが急峻な崖になっている
3. 台地の中に一定の広さの平坦な土地がある
4. 近くに川が流れている

 近くに川が流れているかどうかは確認できませんでしたが、その他の条件はすべて一致しています。

 戦国の城の最大の目的は、敵の攻撃から味方を守ること。当然、急峻(きゅうしゅん)な崖の上にある見晴らしのいい高台は、敵の奇襲攻撃を発見しやすいのです。

 それを考えると、急な石段が示すように、萬福寺がある高台は守りやすそう。

 家来の数が限られる地侍クラスの武将の城は、城の曲輪(くるわ)が広過ぎないことも大切です。ちなみに曲輪とは、城の内外を土塁や石垣、堀などで区画した土地。それが広すぎると兵力が分散して、逆に守りづらくなるのです。

 その点、萬福寺は、戦国の城の曲輪に適した広さの境内がありました。

 一番魅力的なのは、四方を見渡すことができる眺望です。

萬福寺からの眺望(画像:永嶋信晴)



 この見晴らしなら、近づいてくる敵の動きを素早く察知することができるでしょう。

 実は、馬込城に限らず、東京23区にかつて存在したという戦国の城跡は、一部の例外を除き、ほぼ上記の条件に一致しています。なぜなら、それらの条件を満たす土地を選ぶことで、最小限の労力で堅固な城を築くことができるからです。

自然地形を生かした築城

 後の世の豊臣秀吉や徳川家康は、大土木工事を行って大坂城や江戸城などを築きましたが、人力や財力に限りのある戦国の武将は、自然地形を最大限に活用したのです。

 戦国時代には、一般に丘城(おかじろ)と言って、舌状台地(ぜつじょうだいち)や小高い丘の上に城が作られました。

 舌状台地とは、読んで字のごとく、平地の上に台地が舌のように突き出している地形です。戦国時代の武将たちは、この細長い台地を断ち切る形で何か所か切れ目を入れ、城の防御力を高めたのです。

 それらの切れ目が空堀で、堀を掘って出た土を城の周りや出入口の近くに土塁として積むことで、さらに防御力を高めました。実は江戸城も、戦国時代は、舌状台地に、このようにして作られた小さな城のひとつでした。

 川は、生活用水を確保するとともに、水堀としても活用することで防御力のアップに貢献します。舌状地は、1本の川や複数の川によって、台地が侵食されて作られることが多いので、その意味でも川が近くにあることが多いのです。

 東京23区は、一般に平坦な土地がどこまでも続いているように見えますが、実際歩いてみると、けっこう起伏があります。

 逆に言えば、そういった舌状台地に注目することで、皆さんの家の近くにも城跡が発見できるかもしれません。

 さて、先にも述べましたが、萬福寺を訪れた時点では、馬込城の存在には気づいていませんでした。ただ、私が戦国武将だったら、ここに城を築くだろうな、と。

 この周辺に城が存在したことを知ったのが、次に訪れた大田区立郷土資料館です。

住宅街、幻の「馬込城」を探して

 郷土資料館の中には大田区内の史跡マップがあり、馬込城の推定地が表示されていました。それを見ると、郷土資料館の窓から眺められるほど近くにあるではないですか。

萬福寺の後に訪れた大田区立郷土資料館(画像:永嶋信晴)



 これまで馬込城の存在は知っていましたが、遺構が全く残っていないということでスルーしていました。

 萬福寺で城跡アンテナが反応したのだから、行ってみれば何かあるはず。

 ということで、郷土資料館で見た地図の記憶を頼りに現地へ向かいます。方向的には、奥に見える緑深い丘の辺りのようです。向かう途中にある急こう配の坂も、城の存在をうかがわせます。

 緑の丘の中にあったのが、湯殿神社。

 経験上、城跡にお寺や神社があると、城の痕跡が残っている可能性が高まります。どの時代の人たちも、宗教施設の土地に手を入れるのは憚(はば)られるのかもしれません。
 神社の境内には、土塁や空堀のような凹凸がありました。

 バイアスがかかった城跡モードの目で見ると、全て城の痕跡に見えてしまうから気を付けないといけませんね。

馬込城の詳細はいまだ謎のまま

 しかし、急峻な崖の上に立つ湯殿神社は、城の存在を十分にうかがわせるものでした。湯殿神社の周辺も、舌状台地の地形を今もしっかり確認することができます。もしかしたら、尾根道になっている先に、深い空堀があったのかもしれません。

湯殿神社の境内(画像:永嶋信晴)



 馬込城は、鎌倉幕府の御家人の末裔(まつえい)が城主だったという伝説があるそうです。先ほど萬福寺で見た「梶原三河守景時同助五郎景末」の墓石を思い出しました。まさにその人物が戦国時代のこの地域の領主で、馬込城の城主だと考えられているのです。

 しかし、馬込城の場所や城域など、詳しいことはわかっていないとのこと。

 戦国の城は、舌状台地の先端部分に作られることが多いと述べました。この湯殿神社周辺は舌状台地の最先端とされ、萬福寺から湯殿神社へ続く高台全体を城域とする説もあるそうです。

 ちなみに大田区のホームページには、東は北野神社(南馬込2丁目)、西は湯殿神社(南馬込5丁目)、南は臼田坂下(中央1丁目、中央4丁目)、北は大田区立馬込図書館(中馬込2丁目)までに及ぶ中世城郭だったとあります。

 ここまで城の範囲が広いとは信じられないですが、本当だとしたら思っていた以上の大城塞だったことになります。

 また、湯殿神社の隣にある湯殿公園一帯は、かつて根古屋と言われ、城主の館があったという言い伝えが残っているとのこと。

肝心の“川”はあったのか?

 このように、城にまつわる地名の伝承が残っていることも、城の存在をうかがわせる要素のひとつです。

湯殿神社の隣にある湯殿公園(画像:永嶋信晴)



 先ほど、川が近くに流れているのが、筆者の城跡アンテナが反応する条件のひとつだと述べました。そういえば、近くに川がなかったような……。

 そう思って、あとで調べてみたところ……。

 この近くには、かつて大田区北馬込付近を源流とし大森東で平和島運河に注ぐ、2級河川の内川が流れていたという情報を発見しました。

 上流部は、1976(昭和51)年までに暗渠(あんきょ)化されたらしい。なるほど、暗渠になっていたから気づかなかったのです。

 当時の川筋をたどっていくと、あっ、湯殿神社のすぐ近くを通っている。

 心の中で、思わずビンゴ! と叫んだのでした。

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