本日は「鉄道の日」 関連イベント2年連続中止の今こそ振り返りたい、鉄道の父「井上勝」の功績とは

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本日は「鉄道の日」 関連イベント2年連続中止の今こそ振り返りたい、鉄道の父「井上勝」の功績とは

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小川裕夫

フリーランスライター

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毎年10月14日は「鉄道の日」。残念ながら2020年も「鉄道フェスティバル」は中止ですが、そんな時こそ「鉄道の父」を振り返るよいチャンスかもしれません。フリーランスライターの小川裕夫さんが解説します。

1922年の鉄道記念日制定が発端に

 本日・10月14日は「鉄道の日」です。これは、1872(明治5)年10月14日に日本初となる鉄道路線が新橋~横浜駅で開業したことにちなんでいます。

 当時の新橋駅は現在の新橋駅ではなく、1986(昭和61)年に廃止された貨物専用の汐留駅のことです。貨物駅が廃止された後は、再開発によってオフィスビルが立ち並ぶ街へと変貌しました。

 再開発エリアの一画には、歴史を後世に伝えるべく鉄道歴史展示室の旧新橋停車場が整備されています。そして、鉄道開業時の横浜駅も現在の横浜駅ではありません。当時の横浜駅は京浜東北線・根岸線の桜木町駅になっています。

 鉄道の日は、国土交通省の前身でもある鉄道省が1922(大正11)年に鉄道記念日を制定したことが発端です。その後、運輸省(現・国土交通省)が鉄道の日と名称を変更しましたが、鉄道を祝う日であることに変わりありません。

「鉄道フェス」は2年連続中止だけど……

 鉄道の日は平日になることもありますが、その前後の週末に東京・千代田区の日比谷公園で「鉄道フェスティバル」が開催されることが毎年恒例になっていました。

 しかし、2019年は台風19号が接近していたことを理由に中止になっています。そして、2020年は新型コロナウイルスの感染拡大を防止するという名目で中止になりました。

 各地の鉄道事業者のなかにはコロナ対策を講じたうえで、関連イベントを独自開催するところもあります。

 鉄道フェスティバルは、新発売される鉄道グッズを目当てに集まる鉄道ファン、イベント会場で発売される駅弁を楽しみして来場するグルメファン、シンカリオンなど鉄道の人気アニメに夢中の親子連れなどが訪れます。

 鉄道フェスティバルが、2年連続で開催を中止することは異例の事態です。天災が中止の理由では仕方がありません。そこで、密にならない鉄道を楽しんでみるのはいかがでしょうか?

日本の鉄道建設を主導した井上勝

 普段は乗らない電車に乗ってみる、好きな駅を巡ってみる、カメラを持って沿線を散策しつつ撮り鉄に挑戦する――鉄道をひとりで楽しみ、存分に“鉄分補強”をする術はたくさんあります。しかし列車内も駅も、多くの人が利用します。どうしても、鉄道は“密”になりやすいのです。

 そうした“密”が気になる人にとって、オススメしたいのが「井上勝」を巡る1日ぶらり旅です。井上は黎明(れいめい)期に鉄道の発展に貢献した人物で、その功績から“鉄道の父”とも形容されます。

復元工事を終えて、東京駅前広場に戻された井上勝像(画像:小川裕夫)



 長州藩士の子として生まれた井上は、幕末に伊藤博文や井上馨といった明治維新の立役者たちとともにイギリスへと渡りました。そこで鉄道や鉱山技術を学び、帰国後に鉄道建設の責任者へと起用されるのです。

 日本の鉄道建設は、井上が主導しました。当時、鉄道への理解は薄く、そのために井上はいろいろと苦労を強いられました。それでも1872年には日本初となる鉄道が正式に走り始めます。

 鉄道開業を成し遂げた後、政府は財政難に直面。そのため、政府主導で鉄道を建設することができなくなりました。

 鉄道建設が滞っている間、私鉄によって線路が建設されていきます。井上は「鉄道は国が建設するべき」という持論だったこともあり、私鉄は容認できないものでした。

 1893年、井上は官職を辞して汽車製造会社を立ち上げます。当時の日本は機関車を製造する技術がなく、海外からの輸入に頼っていました。機関車の国産化を達成すれば、それは国家にも貢献します。こうした考えから、井上は機関車の国産化に挑んだのです。

 それと並行して鉄道職員の養成も始めます。官職を辞した後も、井上は鉄道業界で活躍を続けたのです。

 民間に転じた後も、井上は政府による鉄道建設を繰り返し主張しました。井上の熱意は政府を動かし、鉄道は国が建設するべきものという概念は広く定着。そしてすでに建設されていた私鉄の多くは、国が買収することになりました。

新馬場駅から徒歩10分の場所にある墓地

 1910年、井上はヨーロッパへ視察に出掛けます。ヨーロッパを巡歴中、体調を悪化させ、ロンドン滞在中に井上は世を去りました。

 井上の死は鉄道業界のみならず、政財界からも惜しまれました。鉄道に大きく貢献したことを理由に、1914年の東京駅開業時には駅前広場に井上の銅像が建立されたのです。

 日本の鉄道を代表する東京駅の駅前広場に建立されたことを考えると、鉄道発展に尽くした井上の功績の大きさがわかります。

 東京駅前広場に建立されていた井上の銅像は、戦時下の金属供出で撤去されました。しかし、戦後に再建を果たします。2007(平成19)年から始められた東京駅の赤レンガ駅舎復元工事では、工事の作業場所を確保する都合もあって一時的に撤去されました。工事終了後、駅前広場に戻されていいます。

2007年まで、赤レンガ駅舎を背に立っていた井上勝像(画像:小川裕夫)



 以前の井上像は、赤レンガ駅舎を背に立っていました。現在は丸ビル側にあり、東京駅を見つめるように立っています。

 井上の遺体はロンドンで荼毘(だび)に付され、品川区の東海寺(品川区北品川)に埋葬されました。

 東海寺は東海道本線・京浜東北線と山手線・横須賀線・東海道新幹線の線路に挟まれた場所にあります。井上の墓所の前には大きな説明板が立ち、そこには「死後も鉄道を見守りたいという意向から」という理由で同地に埋葬されたと書かれています。

 東海寺は京浜急行電鉄の新馬場駅から徒歩10分ほど、JRなら山手線の大崎駅から徒歩12分前後の距離にあります。

 東京駅で井上像をめでた後、墓所を参拝して、鉄道の先人たちに思いをはせてみるのもいいでしょう。

 と、ここで話が終われば美談です。鉄道関係の書籍・雑誌などでも、井上の墓所に関する話はたびたび紹介されます。しかし、これは、あくまでも井上側から語られた話に過ぎません。もう一方の当事者である東海寺から見ると、この話は違った趣を帯びてきます。

 井上が「死後も鉄道を見守りたい」として選んだ東海寺は、鉄道を建設する際に鉄道当局からむちゃな注文を次々と突きつけられているのです。

なぜ東海寺に井上の墓があるのか

 東海寺は徳川3代将軍・家光によって創建され、その後に火事で焼失。それでも5代将軍・綱吉によって再建されるなど、江戸時代には幕府から手厚い保護を受けていました。

品川区北品川にある東海寺の位置(画像:(C)Google)



 幕末までは広大な境内地を誇った東海寺に対して、明治新政府は鉄道が国家発展に寄与するという大義名分を振りかざして強引に線路を敷設していきます。

 明治新政府は鉄道を無理やりに建設しただけではなく、境内地に植えられていた松や砂利なども建設資材として提供するように命令。こうした暴挙ともいえる政府の強引なやり方もあって、東海寺は衰退してしまいました。

 東海寺にとって、鉄道は不倶戴天(ふぐたいてん)の敵でもあり、鉄道の父でもある井上は許しがたい存在といえるでしょう。いくら「死後も鉄道を見守りたい」と井上が言い残したからとはいえ、東海寺が過去の恨みを簡単に水に流して快諾するとは思えません。

 それなのに、なぜ東海寺に井上の墓があるのでしょうか? その理由は、はっきりしていません。

 あくまでも推論になりますが、東海寺は鉄道当局からこれ以上の無理難題を押し付けられないように、「鉄道の父でもある井上の墓」があることを盾にしたのではないでしょうか?

 さすがに、鉄道当局も鉄道に父の墓のある境内を鉄道用地として提供せよとは言わないだろうという思いから、井上の墓を受け入れたとも考えられるのですが、文書が残されていないために今は真偽を確かめる術がありません。

 そして、現在、東海寺の隣接地はリニア新幹線の工事用地として使用されています。

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