時が止まった商店街・台東区「おかず横丁」に見る、素晴らしき看板建築の数々
かつて多くの惣菜店が軒を連ね、看板建築の建物が立ち並んだ台東区鳥越の「おかず横丁」について、都市探検家の黒沢永紀さんが解説します。20世紀日本の商店建築のスタンダードだった JR浅草橋と地下鉄新御徒町駅のちょうど中間くらいの位置にある鳥越本通り商盛会、通称「おかず横丁」(台東区鳥越)。 昭和の時代に多くの惣菜店が軒を連ね、地元の胃袋を支えた商店街は今、風前の灯です。営業するおかずの店も、ほんの数軒になってしまいました。 しかし、先の大戦の戦禍を免れた横丁は、都内で最も看板建築が残存する商店街のひとつ。今回は、おかず横丁に残る看板建築の魅力をさぐってみたいと思います。 左衛門橋通りに面したおかず横丁の東端(画像:黒沢永紀) おかず横丁に密集する看板建築とは、関東大震災で壊滅的な打撃を受けた東京の右半分を中心に、昭和の初期から建設された商店建築のスタイルです。 もともと国内の商店は、日本家屋を元にした町家といわれるものがほとんどでした。1階の軒先が2階より突き出し、店の中へ入って商品の品定めをする造りで、今でも酒屋をはじめ、町家造りの商家は数多く残っています。 震災で廃墟と化した東京は、すぐさま区画整理が行われ、その際に建屋を道に張り出して造ってはいけないという決まりが生まれました。 その結果、従来の1階が張り出した造りをやめ、なるべく土地を有効利用できるよう、店舗の正面を垂直に立ち上がった造りが普及しました。それまでの主流だった町家造りにかわって、木造建屋の前面を“看板のように”垂直に立てた形で仕上げたのが看板建築です。 おりしも西洋から、鉄筋コンクリートのビルという新しい建物が伝わり、垂直に立てた店構えの表面を西洋風に仕上げることで、従来の店内で品定めをする形からウインドウ・ショッピングができる形へと変化し、これがその後の路面店舗の原型となりました。 こうして、従来の商家とはまったく異なる店が建ち並ぶ商店街が誕生したわけです。なお、戦後の復興期も関東大震災後にならって、多くの商店が看板建築で建てられています。看板建築は、20世紀の日本を席巻した、商店建築のスタンダードといえるでしょう。 壁面だけ洋風の「擬洋風商店」も壁面だけ洋風の「擬洋風商店」も おかず横丁は台東区の南端に位置し、区内を縦走する清洲橋通りと左衛門橋通りをつなぐ、約200mの商店街。今では一般住宅に建て替えられたものや仕舞屋(しもたや。商売をやめた家)も多く見られますが、昭和の初めに商店街が発足したときには、看板建築がずらりと並ぶ、活気溢れる商店街でした。 清洲橋通りから入ってちょっと進んだところにある老舗の「大佐和茶舗」。このお店も看板建築ですが、人造石を使った正面はとても重厚感があり、関東大震災以前から建てられていた「擬洋風商店」(日本家屋の建築技法で建てた建物の、おもに壁面だけを洋風に施工した商店)の雰囲気を色濃く漂わせています。店舗正面の立ち上がった上部にあしらわれたかわいいタイルや、軒の上に人造石で造られた小さな茶筒が並ぶ姿は、とても面白みを感じます。 ちなみに屋号の「大佐和」さんですが、本来「大沢」さんだとすれば当て字。江戸時代から戦前にかけて、当て字を使って屋号を三文字にするのが流行りました。これは、平仮名にすると四文字で縁起が悪く、また漢字の二文字だと、三枚が基本の暖簾に収まらないからだと言われています。ただし、大佐和さんは実際にある名字なので、実名かもしれません。 シンプルな三軒長屋の看板建築(画像:黒沢永紀) 大佐和茶舗の斜め向かいには、三軒長屋の看板建築もあります。そのうちの一軒はモルタル塗りで、2階の上部には、屋号の頭文字を形象化したと思われる、メダリオンと呼ばれるレリーフが丁寧にあしらわれています。この装飾は、看板建築に限らず近代化を歩む日本のそこかしこで流行ったもの。ちょっとしたディテールからも、現在とは違う100年前の記憶が垣間見えます。 また、メダリオンの上下に施行された四角い連続模様は、デンティル・コーニスと呼ばれる歯型の軒飾り。これもまた、昭和初期に流行った建築装飾のひとつです。 三軒長屋の斜め向かいにも、同様の看板建築で造られた三軒長屋が建ちます。関東大震災以降、類焼回避の目的で、長屋を三軒までとすることが推奨されました。おかず横丁の看板建築に三軒長屋が多いのは、一般家屋より出火率の高い商店街建築を考慮してのことだと思います。 こちらの三軒長屋は簡素なデザインですが、右端の建屋の2階に施工された3本の付け柱が時代を感じさせてくれます。 またトタン板で覆われた看板建築も散見しますが、これらはおそらく、元々貼られていた銅板の上から全体をトタン板で覆って補強したもの。左右の柱部分には、石肌を模した型抜きトタンが貼られていたりしています。 看板建築を武器に再び復活を 頑張れ! おかず横丁看板建築を武器に再び復活を 頑張れ! おかず横丁 少し路地を入ったところにある鳥越パーマ店は、真鍮のドアノブや大理石調タイルの腰壁など、懐かしい雰囲気の美容室。「パ」の字の半濁点が、ハの右の部分に横長に引っかかって、楕円形の輪郭を串刺しにしたようなデザインは、かつて江東区にあった赤線・洲崎パラダイスの「パ」を意識したものでしょうか。 左衛門橋通りの角にある老舗酒屋の「高岡酒店」は、大きくて重厚な木製の看板が、かつての栄華を偲ばせます。角地なので、2面を看板状に仕上げた造り。2階部分は正統派の銅板葺ですが、立ち上がった3階部分はトタンが貼られて赤茶色の錆が全面を覆っています。この緑青と錆赤のコラボレーションもまた味わい深いのではないでしょうか。 看板建築ではありませんが、商店街のほぼ真ん中にある佃煮の「入舟屋」は、裾に黒タイルを巻いた巨大なショーウィンドウに、さまざまな佃煮や煮豆を並べる昭和10年頃開店の老舗。 営業を続ける数少ない店舗のひとつ、佃煮の「入舟屋」(画像:黒沢永紀) ご主人の話だと、おかず横丁は地主と大家が別で、けっきょく地主の鶴の一声で建て替えがどんどん決まってしまうとのこと。それでも多くの看板建築が残っているのは、とても嬉しいことです。 もちろん、90年前の建物で商売をしながら暮らすということは、とても大変なことだと思います。看板建築を残すことが、果たしていいことかどうかはわかりません。商店街が繁盛していれば、はるか以前に建て替えられ、こうして商店街に残る看板建築群を見ることもできなかったと思います。そして商店街としても、本来はそうなって欲しかったと思っていることでしょう。 筆者が平成の初頭に訪れたときは、まだたくさんの惣菜屋が営業し、とても活気ある印象でしたが、平成に入ってからめっきり勢いが無くなったと、前出の入舟屋のご主人は言います。バブル期を最後に、国内の多くの商店街が衰退の運命を辿りましたが、おかず横丁もその例外ではありません。 今とは比べものにならないくらい時代がダイナミックに流動した大戦間期を、目に見える形で今に伝えるのが看板建築の最大の魅力です。江東区亀戸にある勝運商店街が看板建築の再生で復活したように、おかず横丁もせっかく残った看板建築を武器に、再び復活してほしいと願うばかりです。 なお、おかず横丁にほど近い「佐竹商店街」の界隈も、都内でかろうじて戦災を免れたエリア。商店街の周囲には、さまざまな看板建築をはじめ、数多くの戦前建築が今なお現存しているので、こちらもご覧になってはいかがでしょうか。
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