かつて町田市に「地下鉄建設計画」があった! 平成初期の壮大な夢はなぜ破れたのか
町田市に地下鉄を建設する――かつてそんな壮大な計画があったことを、皆さんはご存じでしょうか。その背景と結末について、鉄道ライターの弘中新一さんが解説します。大都市ではない町田市になぜ? 町田市に地下鉄を建設する――かつてそんな壮大な計画があったことを、皆さんはご存じでしょうか。 地下鉄が存在するのは巨大な都市だけで、東京以外では ・札幌市 ・仙台市 ・横浜市 ・名古屋市 ・京都市 ・大阪市 ・神戸市 ・福岡市 といった人口100万人超えの大都市にあります(千葉県の東葉高速鉄道と北総鉄道、埼玉県の埼玉高速鉄道、広島県のアストラムラインも地下鉄に含める場合があります)。 対して町田市の人口は、2021年4月1日時点で42万9645人。そこそこの人口ですが、地下鉄のあるほかの都市に比べると、はるかに小さなボリュームです。そんな街で計画された地下鉄とは一体なんだったのでしょうか? 平成元年に走った衝撃 町田市が地下鉄の建設を計画していることが明らかになったのは、平成が始まって間もない日のことでした。 現在の町田市(画像:弘中新一) 1989(平成元)年3月14日付『朝日新聞』東京地方版には、「リニアでミニ地下鉄 渋滞解消に町田市が構想 東京」の見出しで、次のように報じられています。 「町田市は市内の交通渋滞解消のため、リニアモーターを使ったミニ地下鉄導入の検討を始めた。町田駅と木曽や山崎にある住宅団地を結ぶ1期工事を手始めに、JR横浜、小田急、京王線などの各駅と連結するビッグ・プロジェクト。1期工事は10年以内に開通させたいという。しかし、運輸省(現・国土交通省)地域交通局は「政令指定都市以外で市が地下鉄をつくるのは聞いたことがない」と戸惑った表情。1000億円以上の財源のほか、ルート決定などの問題もあり、実現までは曲折がありそうだ」 新聞各紙の報道によれば、町田市は1988(昭和63)年11月に「町田市新交通システム研究会」を設立。ここでの検討のなかで、渋滞の抜本的な対策として現在の都営大江戸線と同じ方式を使った地下鉄建設が検討されたとしています。 当時、町田駅周辺は再開発も進み、現在の中心部が完成していた時期でした。 町田市が抱えていた大きな問題町田市が抱えていた大きな問題 JRと小田急の町田駅は現在隣接していますが、かつてJRの町田駅は現在より横浜方面にありました。駅名もJR(当時は国鉄)が原町田駅。小田急が新原町田駅でした。 現在の町田駅周辺の地図(左)と、1967(昭和42)年に発行された地図。町田駅の位置が移動しているのがわかる(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕) そんな街の再開発に着手したのが、1970(昭和45)年に就任した大下勝正市長です。大下市政で進められた再開発では、国鉄の原町田駅が小田急側に移転し、駅名も町田駅に改称、統一されました。 しかし再開発が進んだものの、町田市には大きな問題がありました。それは交通渋滞です。 町田市では通勤・通学に両線の町田駅を利用する市民が極めて多く、ラッシュ時には駅周辺の渋滞がひどい状態でした。また駅周辺以外でも急速に都市化が進んだため、あちこちで渋滞が発生していました。 町田市の『広報まちだ』1987(昭和62)年11月21日号に掲載された市民意識調査の結果によれば、市に要望する事業のうち、交通渋滞の解消が「団地地域12地区のうち10地区で1位となっており、中でも山崎団地、藤の台団地、境川住宅、木曽・町田木曽住宅では約80%」と記されています。 これを受けて、町田市では駅に隣接する町田バスセンターを拡充。さらにバスを定時運行させるため、バス専用レーンの設置を実施しました。車線のひとつを9時から23時まで専用レーンとする、全国でも初の試みでした。 「昭和63年7月1日午前9時、お中元商戦まっただ中、市民待望の「バス専用レーン」が警視庁白バイの先導で開通した。また、沿道には所轄警察官による指導体制のもと大きな混乱もなく第1日目をスタートした。(中略)その後も通行区分の徹底を指導するために一週間にわたり交通警察官が配置され、路上駐車の指導取り締まりが行われ、順調なすべりだしとなった」(『交通渋滞解消へ“町田の試み”』町田市都市計画課 1989年9月) 残念ながら、バス定時運行のための施策は一定の成果をみたものの、完全に渋滞を解消することはできませんでした。理由は、依然として自家用車を利用する市民が多かったためです。そこでさらなる抜本的な渋滞解消策として浮上したのが、地下鉄建設計画だったというわけです。 総事業費約1000億円という予算規模総事業費約1000億円という予算規模 建設予定の地下鉄について町田市は、公共交通機関がバスしかない団地同士を結ぶことを構想していたようです。大下市長に取材した『AERA』1989年3月28日号では、建設ルートをこう記しています。 「第1期工事は、JR、小田急町田駅からその団地群のそばを通って、数年後に移転する市役所まで」 予算規模は総事業費約1000億円。2021年の町田市における一般会計の当初予算額は1738億4207万円ですから、自治体の財政規模を考慮しない壮大な計画です。 これに対して大下市長は6割を国の補助金、残りを起債(国・地方公共団体・会社などが国債、地方債、社債などを発行、募集すること)でまかない、元利償還は10年後からと答えています。また「道路の渋滞で悩んでいる市民のことを思えば、これくらいの出資は当然」とも。 こうして盛り上がった町田市の地下鉄計画ですが、同じ1989年6月には早くも暗雲が立ちこめます。 1989年6月1日付『朝日新聞』朝刊では、町田市がリニアミニ地下鉄の調査研究委託料として、2000万円の補正予算を市議会に提案する記事が掲載されています。その理由は次のとおりです。 「市では当初、年内にも結論を出す予定だったが、運輸省運輸政策審議会の認可が92年まで下りそうにないことが分かり、当面、基礎資料を整えることにした」 この記事を最後に、町田市の地下鉄計画は報道からは姿を消しました――。 多摩地域南部に位置する町田市(画像:(C)Google) しかし調査は継続していたようで、1990年3月に町田市は『町田市総合交通システム調査研究報告書』を作成しています。しかしこれは地下鉄建設を推進するものではなく、当時「新交通システム」と呼ばれた神戸ポートアイランド線や東京モノレールなど、さまざまな路線のデータとメリット・デメリットをまとめただけのものでした。この後、町田市では市の作成する公共交通機関構想の資料がつくられない時期が続きます。 町田市が再び公共交通機関の拡充に言及するのは、2006年2月の『町田市交通マスタープラン』においてです。 ここでは、地下鉄の構想には触れられることはなく ・多摩都市モノレールや小田急多摩線の早期延伸 ・延伸までの代替手段の確保 が触れられるにとどまっています。 いったい地下鉄構想は、どこで消滅してしまったのでしょうか。 もし計画が実現していたら……もし計画が実現していたら…… 町田市の市議会議事録をみると、1993(平成5)年12月の定例会で大下市長にかわった寺田和雄市長が「リニア地下鉄」に触れているのが、最後の記録となっています。 交通マスタープランの作成について問われた寺田市長は「かつて随分古い話でありますが、前の市長さんのとき」にあった話として「リニア地下鉄」に触れ、 「町田のようなまだまだ山間地の多いところでは、実際につくったとしても、とても採算が合わないのではないかというふうなことで、今のところ、手も足も出していないわけであります」 として、都市モノレールが有力な交通手段ではないかと応えています。 町田市周辺の地形(画像:国土地理院) 抜本的な渋滞解消策となる可能性が高いとはいえ、事業費が膨大な地下鉄計画は早い段階で放棄されてしまったようです。 もしもこの計画が実現していたら、町田市は神奈川県相模原市より先に政令指定都市になるくらい発展していたかも知れません。それほどに、地下鉄建設は壮大な夢だったのです。
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