本物の島か、埋め立ての島か 晴海運河に静かに浮かぶ「中の島公園」の正体【連載】東京うしろ髪ひかれ地帯(16)

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本物の島か、埋め立ての島か 晴海運河に静かに浮かぶ「中の島公園」の正体【連載】東京うしろ髪ひかれ地帯(16)

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業平橋渉

都内探検家

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「東京23区唯一の自然島(自然にできた島)」は江戸川区の妙見島とされていますが、江東区にも自然島の可能性がある島があります。その名は「中の島」。都内探検家の業平橋渉さんがその謎について調べました。

月島駅から歩いて行ける公園

 江東区にある中の島公園(江東区越中島)は、都内で特に気になる島です。なぜなら自然にできた島なのか、埋め立てによってできた島なのか判然としないからです。

江東区越中島にある中の島公園(画像:(C)Google)



 この島があるのは晴海運河の江東区寄り。月島駅から清澄通りを北上し、中央区佃と江東区越中島を結ぶ相生橋の途中に江東寄りへ下に降りる道がつながっており、そこが中の島公園となっています。

約110年前にはすでに存在

 1909(明治42)年の地図を見ると、この時点では既に相生橋が架橋され現在の中の島公園は記されています。

左が1909年に測図された地図。右は現在(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)

 では、これより古い時代の地図ではどうなっているのでしょうか。このエリアを調査するときの定番『中央区沿革図集』には、1884年の「参謀本部陸軍部測量局東京五千分一図」が収録されており、ここには現在の中の島付近に「泥」という記載があります。

 この記載から、「中州のようなもの」が確かに存在していたことが推測できます。ただ、これが常に陸地が水面の上にあるのだったのかはわかりません。

 この「泥」が自然の流れによるものかも謎です。中の島公園は現在、晴海運河の一部となっており、海には近いものの内陸に位置しています。しかし、明治までは隅田川の河口にあたる場所でした。

 そのため、河口に近いところに自然に形成された干潟だと思いますが、前述の「参謀本部陸軍部測量局東京五千分一図」が作成される前年の1883(明治16)年に「東京湾澪浚(みおさらい)」が始まり、航路を開くための浚渫(しゅんせつ。水底の土砂を掘り取って運搬処分する作業)が行われているため、そのときに掘り起こされた泥が堆積したものを、そのまま「泥」と記載している可能性があります。

 もともと、東京湾澪浚は隅田川河口付近に土砂が堆積し川が浅くなり、当時盛んだった水運に支障を来すようになったために実施されたものであることを考えると、「泥」が自然由来のものなのか、人工的なものかは余計にわかりません。

 今、この付近の川面を見ても浅瀬があるようには見えませんが、戦後しばらくまでは浅瀬は多かったようです。

「水中塔婆」の記述からわかること

 ここまでは6月27日配信のアーバンライフメトロの記事「通説「東京23区内の島は1つだけ」はウソ? 江東区の川に浮かぶ謎スポットを調べてみた」に書きました。

 さて、隅田川付近の歴史を知る上で欠かせない、豊島寛彰『隅田川とその両岸』(芳州書院、1962年)という資料があります。そこには以下の記述あります。

「相生橋を渡るとき、隅田川に目をやれば、水中塔婆が入り乱れて川波にゆらゆら動いている。その異様なさまは、人の命を奪った河水をうらんでいるようにも見え……」

 この文を読むと、読者は「水中塔婆」を知っていて当然という書き方をしています。当時はありふれた光景だったようですが、しかし現代人にはなんのことだかわかりません。

 この記述の部分に掲載されている写真には、川の浅瀬のようなところに無数の卒塔婆が立っている光景が写っています。水中塔婆とは、隅田川で命を落とした水死者を供養するものでした(現在は消滅)。地域の人に尋ねたところ

「かつて浅瀬が多く、この付近にご遺体が流れてきて引っ掛かることが多かったため、卒塔婆が多く建てられていた」

といいます。ただこれがどのようなしきたりだったかは、今となっては判然とはしません。

1936(昭和11)年中の島公園の航空写真(画像:国土地理院)



『隅田川とその両岸』では、さらに水中塔婆についてこう記しています。

「大正大震災後は急に塔婆の数も増した。塔婆は潮が満ちるとかくれ、潮がひくと大きくその姿をあらわして人の目をひいている」

 この記述を見ると、付近に浅瀬は多かったものの、潮が満ちたときには水中に沈むものばかりで、中の島公園もそうした浅瀬に盛り土をして生まれたものではないかと推測されます。

現在の公園になったのは1980年

 この中の島公園ですが、管理している江東区にも経緯を記した資料は残されていません。現在の公園の形になったのは1980(昭和55)年ですが、その前は江東区に残された資料では「昔はあれほうだいの無人島だった」という出典不明の記述が存在しています。

 この記述を基にすれば、元から島があってそこに橋脚を建てて相生橋としたのではないかと思いましたが、さらに資料を精査すると、この記述が間違いかもしれないと判断できるものが見つかりました。

 これもまた『隅田川とその両岸』の記述ですが、こう書かれています。

「この中之島公園は小さいながら戦後お台場公園ができるまで東京唯一の水上公園であった。公園には震災後、隅田川諸橋の生みの親、太田円三氏(当時復興局土木局長)の銅像が建っていたが、終戦後神田橋わきの公園に移されてしまった」

 中の島公園は1980年にできたという公式の記述に引きずられていましたが、これはあくまで現在の公園ができたときのこと。この記述が正しければ、それ以前から既に公園として整備されていたことがわかります。

 相生橋が、越中島と佃島・月島を行き来していた住民に念願の架橋だったことを考えると、間の島の部分を荒れたまま放置しておくとは考えにくいものです。

現在の中の島公園の航空写真(画像:国土地理院)



 今回の調査から

・もともと浅瀬が多かったこと
・1980年以前も公園だったこと

は判明しましたが、それでもなお埋め立てでできた島なのか否かを判断する決定的な資料は見つかりません。最も浅い部分に土を持って橋脚を建て、陸地部分としたというのが確率の高い結論ですが、そのことを裏付ける資料はありません。

 これはあくまで現在までの調査によるものです。果たして中の島公園とはなんなのか? さらに資料の探索を続けたいと思います。

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