小さすぎてよく見えない! 多摩川の河口付近に浮かぶ「ねずみ島」とは何か?【連載】東京うしろ髪ひかれ地帯(15)

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小さすぎてよく見えない! 多摩川の河口付近に浮かぶ「ねずみ島」とは何か?【連載】東京うしろ髪ひかれ地帯(15)

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業平橋渉

都内探検家

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大田区と川崎市の間を流れる多摩川。その河口付近にとても小さな島があります。その名は「ねずみ島」。この島はいったい何なのでしょうか。都内探検家の業平橋渉さんが解説します。

多摩川に浮かぶ島

 多摩川は流域の多くが東京都と神奈川県の境界となっており、地図を見ているだけでも楽しめます。県境が川の中心ではなくジグザクに走っており、地形が今と大きく変わったと想像できるのです。さて、ある日、東京の島について調べていると気になる島を見つけました。それは多摩川の河口付近にある「ねずみ島」です。

多摩川に浮かぶ「ねずみ島」画像:(C)Google)



 京浜線の穴守稲荷駅(大田区羽田)を降りて多摩川に出ると、その姿を見られます。しかしねずみ島は県境の少し南側にあるため、厳密には川崎市ですが気になります。

 インターネット上にはねずみ島に言及している記事は多く、多摩川の改修工事で川幅を広げたところ、高地だった部分が島となって残ったと書かれています。では、そこに至るにはどんな経緯があったのでしょうか。

島は元々、果樹園だった?

 まずは元の地形について、1906(明治39)年の地図を見てみましょう。

 当時の多摩川の川幅は現在の半分程度しかなく、ねずみ島にあたる大師河原村下殿町には果樹園(梨畑)が広がっていて、現在のねずみ島にあたる土地もその一部だったことがわかります(地図の赤丸部分)。

1906(明治39)年の地図(左)と現在の地図(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)

 さらに古い地図を調べてみましょう。

 この地域のもっとも古い1936~1942年頃の航空写真では改修前の多摩川が記録されており、現在のねずみ島付近が微高地(地形図上には表現しにくい小規模で微細な起伏をもつ地形)だったことがわかります。

 ねずみ島の誕生に至る多摩川の改修工事が始まったのは、1918(大正7)年です。

 それまで、多摩川は何度も氾濫を繰り返す危険な川でした。そこで1914年には、御幸村(現・川崎市幸区東部と中原区東部)と周辺住民が、アミガサをかぶって神奈川県庁に陳情し改修工事を求めています。

 これを受けて国の直轄事業として始まったのが、現在の多摩川の流れをつくった壮大な改修工事でした。

島誕生の逸話

 内務省東京土木出張所の『多摩川改修工事慨要』によれば、1919(大正8)年には川崎市小向に事務所が設けられて、川幅を広げるための土地の買収が始まりました。そののち、

「當時(とうじ)未買収の箇所は、一・二複雑なる係争地あり」

だったものの、1932(昭和7)年度までには買収を完了しています。

1936~1942年頃の航空写真と現在の地図を重ねたもの(画像:国土地理院)



 このときに買収に応じなかった人がいて、その土地の周りを河川敷として掘ったため、ねずみ島ができたというのが島誕生の逸話です。これは土地の人に聞いてもよく語られます。

 実際、調べてみると工事が行われた当時の資料には、前述の「一・二複雑なる係争地あり」という意外にはなにも資料がありません。現在の川崎市側は土地を大幅に掘削されているため、公共工事の必然として係争があったことはうかがえますが、これがねずみ島のことを指すのかはわかりません。

戦後の資料にあった記述

 ねずみ島に言及する資料が見つかるのは、戦後になってからのものです。

 熊谷義夫『稲荷新田誌考』(私家版、1963年)には、

「今川の中に見える島はこの時最後まで反対した東京の人の耕地のあとで無理やりここだけ残し、まわりをほってしまったのだそうです」

とあります。さらに同じ著者の『稲荷新田考』(1973年)には、より詳細な記述があります。

「多摩川の治水の為には、大師河原一村の犠牲はやむを得まい。洪水の主な原因は堤外地に植栽されている果樹が、海に流れこもうとする水勢の邪魔をし、その為に堤防がきれるのだから、まず堤外の果樹畑をとり払い、川幅を拡(ひろ)げ、川をほりさげ、堤防を堅固につくりなおさなくては(省略)この為、殿町は耕地の約半分、十万坪を失うことになり、県下にその名をとどろかしてきた梨の生産地はかい滅してしまうことになった。(省略)又、今河中に見える浮洲のような二つの島は、この時、最後まで立退きに反対した、東京の人の持地所で、無理やりここだけ残して掘ってしまったものだとか」

「だとか」とあるので、どこかに当時の記録があるのかも調べてみたのですが、確認できませんでした。

梨畑のイメージ(画像:写真AC)

 川崎市立中原図書館に尋ねたところ市史などにも記述が見当たらないため、これが、ねずみ島の誕生を記したもっとも古い資料ではないかとのことでした。

現在は釣りスポットとして有名

 ただ、川崎市立大師中学校生徒会新聞部『大師百年 記憶に残された話』(川崎市立大師中学校、1968年)には

「大師橋に立つと、多摩川の流れの中にいくつかの州がみえる。最後までナシ畑を守り、多摩川の河川改修に反対した人の畑のあとだと、古い大師の人は昨日のことのように語ってくれる」

とあります。

 そのため、未買収地を避けて改修工事を進めた結果、ねずみ島が生まれたということは、間違いないようです。

現在のねずみ島(画像:国土地理院)



 このように、結果的に川の中に残された梨畑の名残がねずみ島であることは明らかになりました。ただ、もうひとつ気になる名前の由来はわかりませんでした。島が「野ねずみの巣」のようになったので、誰となくねずみ島と呼ぶようになったとも聞きますが、由来を示す資料は見当たりません。

 ともあれ、今はねずみだらけの島ではなく、釣りスポットとして、船で多摩川を渡って釣りを楽しむ人に知られているようです。

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