江戸川区「妙見島」は本当に「23区唯一の自然島」なのか? 流布された通説を検証する【連載】東京うしろ髪ひかれ地帯(14)

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江戸川区「妙見島」は本当に「23区唯一の自然島」なのか? 流布された通説を検証する【連載】東京うしろ髪ひかれ地帯(14)

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業平橋渉

都内探検家

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江戸川区東葛西にある妙見島。同島はこれまで「東京23区唯一の自然島」と言われてきましたが、それは本当なのでしょうか。都内探検家の業平橋渉さんが調べました。

注目されたのは2011年から

 浦安駅から西に10分ほど歩いて県境を越えると、強固な護岸に囲まれ、工場などがひしめき合う妙見島(江戸川区東葛西)があります。この妙見島は一般的に「東京23区唯一の自然島」と言われていますが、今回はこの説が本当かどうか調べてみました。なお自然島とは、埋め立てによってできた人工の陸地ではない島を指します。

江戸川区東葛西にある妙見島(画像:(C)Google)



 早速グーグルで「妙見島 自然島」と検索してみると、多くのウェブサイトで「東京23区唯一の自然島」と書かれています。情報の出典が書かれているのは、同じ江戸川区にある妙泉寺(江戸川区谷河内)のウェブサイトくらいで、

「2011年にはタモリ倶楽部にて妙見島が取り上げられています」

とありました。

 そんな妙見島ですが、これまでメディアでどのように取り上げられてきたのでしょうか。早速調べたところ

 妙見島を東京23区唯一の自然島として取り上げている最初の記事は『東京新聞』2011年5月9日付朝刊「TOKYO発 妙見島フシギ発見 旧江戸川 23区唯一の自然島 護岸に囲まれた「軍艦」 明治より100メートル下流に」という記事でした。

 この記事の冒頭では、次のように記されています。

「東西約200メートル、南北約700メートルの小さな中州の島が、千葉県と東京都の境を流れる旧江戸川に浮かぶ。「妙見島(みょうけんじま)」。東京23区で唯一の自然島だ。東日本大震災で、埋め立て地に多かった液状化被害もなかった。島は大部分が工場に覆われているが、不思議な魅力が詰まっている」

 次にメディアが妙見島を取り上げたのが、同じ2011年10月15日の『タモリ倶楽部』(テレビ朝日系)です。ここでは「小笠原諸島が世界自然遺産登録された中、東京23区唯一の自然島・妙見島がリゾート化されたという噂(うわさ)を検証する」として、出演者が島内を探索しています。

 以降『読売新聞』2013年7月31日付朝刊、『サンデー毎日』2017年8月13日号、『朝日新聞』2020年11月26日付朝刊、2021年に入ってからは5月27日に放送された『じゅん散歩』(テレビ朝日系)が、妙見島を東京23区唯一の自然島として取り上げています。

江戸川区の公式サイトが発端か?

 メディアの記述は2011年が最古でしたが、それより古い記述はどこかにあるのでしょうか。調べたところ見つかったのは、江戸川区が制定し、公式サイトで公開している「えどがわ百景」です。

江戸川区の公式サイト「えどがわ百景」(画像:江戸川区)



 江戸川区の説明によれば、これは2010(平成22)年に制定されたもの。妙見島のページを見ると確かに「東京23区唯一の自然島」と説明しています。ここで成り立つ推論は、この記述をもとにさまざまなメディアが取り上げているのではないかということです。

 もしかすると、筆者がまだ見ていない証拠があるのでしょうか。それを確認すべく、まず訪問したのは江戸川区立中央図書館(江戸川区中央)。こちらのレファレンスカウンターで、妙見島が東京23区唯一の自然島である資料について聞いてみました。

 しかし図書館でも、唯一の資料は「えどがわ百景」しかないといいます。『江戸川区史』でも妙見島の記述はあるものの、島の成り立ちぐらいで、唯一の自然島うんぬんという記述は見当たりませんでした。

 何も見つからずに終了と思いきや、司書さんが持って来たのは、筆者がまだ調べていなかった『ヨミダス歴史館』の検索結果でした。『ヨミダス歴史館』は『読売新聞』が1874(明治7)年の創刊号からすべて検索・閲覧できるデータベースです。

 そのなかには、妙見島を取り上げた1985(昭和60)年4月22日付朝刊都民版の連載「江戸から東京へ 東京の史跡を歩く」がありました。ここで記されているのは、護岸工事が施される以前はたびたび冠水し、島の土地が削り取られる「流れる島」の歴史です。この記事の後半には、こんな記述がありました。

「河川の中にある島としては、妙見島のほか、世田谷区玉川先の多摩川の中の兵庫島がある。広さ0.4ヘクタールで妙見島の20分の1。こちらには人は住んでいない。いずれも上流から運ばれてきた砂泥がたい積してできた島だ」

 1980年代に、ほかにも23区には島があると認識されていたにもかかわらず、21世紀になって唯一となったのはなぜでしょうか。

 この後、雑誌専門図書館の大宅壮一文庫(世田谷区八幡山)で記事を調べたところ『毎日グラフ』1957年8月4号で妙見島を「東京の取り残された島」として取り上げてる記事を見つけました。ここに取り上げられた妙見島は、東京とは思えない辺境の地です。

 梅雨の時期になると水害に備えて机の引き出しまで外して上にあげるのが当たり前、島の土はくいを打っても削り取られるばかり。周囲は水に囲まれているのに飲み水は常に不足し、汚れた川の水をろ過して飲むしかない……これらの記述も興味深いのですが、やはり「唯一の自然島」という記述はありません。

「唯一の自然島」はなぜ生まれたのか

 やはり初出は「えどがわ百景」のようです。そこで、これを管理している江戸川区役所の都市開発部都市計画課を訪ねてみましたが、すぐにはわからないということで連絡を待つことに。

 そして、1週間ほどして連絡が来ました。当時の担当者や文化財関連の部署にも確認を取ったくれたそうですが、残念ながら出典は見つからなかったとのこと。

「えどがわ百景」は公募したもののなかから120か所を選定したものです(現在は133か所に)。これは筆者の推測ですが、多数の応募の中から限られた期間と人員で選んだ際に、意図せずに「唯一の自然島」という記述が残ってしまったのではないでしょうか。

 それがたまたまメディアに取り上げられたことをきっかけに、真偽が検証されることもないまま流布してしまったのではないかと想像します。なお、江戸川区の対応は早く「こちらでも出典が確認できないので、記述を削除することにしました」とのことでした。

 東京23区唯一の自然島ではなかったとはいえ、妙見島が魅力的なスポットであることには違いはありません。今回の取材にあたって妙見島についての資料はほとんど読んだのですが、現在の護岸に囲まれた風景になるまでの歴史は極めて興味深いものです。

1947年頃の妙見島(画像:国土地理院)



 前述の『毎日グラフ』では、35世帯が住み、貝取りや白壁の材料になる貝殻の加工などで暮らしている、まれな東京の風景が取材されています。毎年、島の上流部分が1mあまり削られては、下流にたい積した土砂を掘って埋めていたといいます。

 梅雨時期の増水も水かさがじわじわ増えるのではなく、突然鉄砲水が襲うのです。そうした土地が今では強固な護岸に囲まれて、工場などがひしめき合う風景へと変わっています。

400年前には人が住んでいた?

 また、前述の1985年の『読売新聞』「江戸から東京へ 東京の史跡を歩く」によれば、もともと島は江戸時代初期の寛永年間(1624~1644年)に行徳の狩野新右衛門が、市川から浦安に浄天堀というかんがい用水(現在は暗渠化)をつくった功績で、拝領したものとあります。

 狩野新右衛門は狩野浄天の名でも知られ、千葉県市川市の源心寺にある墓石と供養塔が、市指定の文化財にもなっています。

 さらにこの記事では、1985年当時、江戸川区内に在住していた新右衛門の子孫の口を借りて、明治の末までは狩野家の屋敷しかなかった島が、大正時代になり造船所や工場ができて次第に活気のある風景に変わっていたことも記しています。

現在の妙見島(画像:国土地理院)



 当初は「唯一」の部分が気になって調べた妙見島ですが、むしろ現在の風景になるまでの水との戦いの歴史をもっと多くの人に知ってほしいと感じました。

 妙見島を訪れる際、この記事に記した資料を事前に読んでいれば、現在と過去の風景を思い浮かべて価値のある散策ができるのではないかと思います。

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