沢田研二の名曲「TOKIO」が口火を切った、80年代という「遊び」に満ちた時代感覚
1980年代という沢田研二「TOKIO」が口火を切った時代について、社会学者で著述家の太田省一さんが振り返ります。話題を呼んだ、大胆なファッションとパフォーマンス 1980年代と言うと、もう遠い話のような気がします。そこでこの機会に、1980年前後の時代の様子をちょっと振り返ってみたいと思います。 1980(昭和55)年の元日。つまり1980年代がスタートしたその日に発売されたのが、ジュリーこと沢田研二の「TOKIO」でした。 「TOKIO」のレコードジャケット(画像:ユニバーサルミュージック ジャパン) 時代を味方につけたアーティスト、いわばノッているアーティストはいつの時代にもいます。どんなに奇抜、革新的なことをやっても歓呼の声で受け入れられる――当時のジュリーは、そんな無敵の存在でした。 1960年代のグループサウンズ、ザ・タイガース時代からずっと第一線を歩んでいたジュリーですが、無敵という感じが強まったのはソロ歌手になってしばらくたった1970年代後半くらいからだったように思います。 主に阿久悠が作詞を担当して「時の過ぎゆくままに」「勝手にしやがれ」「サムライ」「LOVE(抱きしめたい)」「カサブランカ・ダンディ」など印象的なヒット曲を連発し、その間に日本レコード大賞を獲得し、「NHK紅白歌合戦」ではトリも務めました。 それに加えてジュリーが抜きんでていたのが、ビジュアル面での演出でした。男性歌手としては当時常識破りだったメイク、キャミソールやシースルーなどそのあでやかともいえる美貌を生かした大胆なファッションはもちろんのこと、歌の最中に帽子を飛ばしたり(「勝手にしやがれ」)、小瓶のウイスキーを口に含んで噴き出したり(「カサブランカ・ダンディ」)といった演出がたびたび話題を呼びました。 「やすらぎ知らない遊園地」だった東京「やすらぎ知らない遊園地」だった東京 そしてそんな1970年代が終わり、1980年代に入るとともに世に出たのが「TOKIO」でした。当時民放テレビにも「ゆく年くる年」の放送があり、年が明けると同時にジュリーが登場してこの曲を歌ったのです。 電飾を仕込んだミリタリー調の赤ジャケットもジュリーらしいものでしたが、なんと言っても世間を驚かせたのが本物のパラシュートを背負いながら歌ったことでした。赤と白のストライプの巨大なパラシュートを広げながら歌うその姿には、一度見たら忘れられない強烈なインパクトがありました。 もちろんこの演出は、「空を飛ぶ 街が飛ぶ」というフレーズから始まる歌の内容と連動したもので、その「街」とはいうまでもなくTOKIO、つまり東京のことです。歌詞には男女のカップルが登場しますが、むしろ焦点はそのふたりの恋の舞台となる東京にあります。恋人たちにとって「欲しいなら 何もかも その手にできる」「やすらぎ知らない遊園地」、それが東京です。 この詞を書いたのは阿久悠ではなく、当時コピーライターとして注目され始めていた糸井重里でした。そのことを知れば、モノにあふれ、それを求める人びとの欲望で充満した東京の街が主役なのも納得がいきます。「TOKIO」はまさに爛熟(らんじゅく)した消費文化の幕開けを宣言したものでした。 実際、1980年前後の世相にはほかにもその兆しが発見できます。 例えば、当時まだ一橋大学の学生だった田中康夫の『なんとなく、クリスタル』が発表されたのも1980年でした。ファッションモデルの女子大生を主人公に、彼女の東京でのおしゃれな日常を描いたその小説は、大ベストセラーになりました。 田中康夫の『なんとなく、クリスタル』の表紙(画像:新潮社) 作中に当時流行のブランドや店の具体的な名前がおびただしいほど登場し、それに著者の田中康夫が付けた詳細な注釈も話題になりました。 YMOの「テクノポリス」は、「TOKIO」の予告編かYMOの「テクノポリス」は、「TOKIO」の予告編か また同じ頃、ファッションでは「ビギ」や「コム・デ・ギャルソン」などDC(デザイナーズ&キャラクターズ)ブランドブームがありました。それは女子だけでなく男子も流行のファッションを広く意識し始めたという点で、大きな時代の変化を感じさせる現象でした。当時人気ブランドの店舗が集まっていたパルコや丸井のセールの際には、前日から行列ができるほどでした。 音楽ではテクノポップの流行がありました。細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一で1978年に結成されたイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の2枚目のアルバム「ソリッド・ステイト・サバイバー」(1979年発売)は、累計で100万枚以上を売り上げる大ヒットとなりました。 YMOの「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」のレコードジャケット(画像:ソニー・ミュージックダイレクト) そのコンピューターとシンセサイザーを駆使したサウンドは斬新であるとともに近未来(当時インベーダーゲームも大流行しました)を感じさせるものでした。特に随所に「トキオ」という加工音声が挟まれる代表曲「テクノポリス」は、「TOKIO」の予告編であるかのように思われなくもありません。そのミュージックビデオで、東京タワーがロケットのように空に飛び立つところも同様です。 さて、「TOKIO」はパロディーにもされました。そのあるじはビートたけし。フジテレビ「オレたちひょうきん族」(1981年放送開始)の目玉コーナーになったヒーローもののパロディーコント「タケちゃんマン」でのたけしの衣装は、「TOKIO」のジュリーの赤ジャケットをモチーフにしたものでした。 ビートたけしもまた、1980年代が生んだスターです。1980年頃に起こった爆発的な漫才ブームのなかでツービートとして人気を博し、「赤信号みんなで渡れば怖くない」など世間の常識を笑い飛ばす「毒ガスギャグ」で一世を風靡(ふうび)しました。 1980年代をもう一度思い出すということ1980年代をもう一度思い出すということ 漫才ブームと「TOKIO」の共通点を探せば、それは“遊び第一主義”ということになるでしょうか。 「TOKIO」が東京を「やすらぎ知らない遊園地」に例えたように、漫才ブームもこの世のあらゆることを遊びや笑いの対象にしようとしました。ビートたけしや明石家さんまは、そのフロントランナーでした。 その“遊び第一主義”の価値観は当時の多くの若者を引きつけ、そしてお笑い芸人は尊敬されるようになりました。それはお笑い芸人が当たり前のように報道・情報番組の司会やコメンテーターをするいまの時代の原点でもあったように思います。 そう考えるなら、1980年代のことをもう一度思い出すのも無駄ではないのかもしれません。
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