まるで明治時代のAmazon 110年前「三越百貨店」が始めた画期的な注文システムとは?
新型コロナ禍でよりいっそう定着した、ネット通販などオンラインを使ってのお買い物。そのはしりとも言えるサービスを、老舗百貨店「三越」が明治時代すでに導入していたことをご存じでしょうか? 先見の明にあふれる同店の取り組みを、フリーランスライターの小川裕夫さんがたどります。再びの緊急事態宣言、広まる「新しい生活様式」 2021年1月7日(木)、菅義偉首相が東京都を含む1都3県を対象に緊急事態宣言の発令を決定。春に続く2回目の発令は、あらためて新型コロナウイルスの脅威を私たちに痛感させる出来事になりました。 これまでに、マスクの着用やソーシャルディスタンスの確保、アルコール消毒液の設置、屋内施設の入場制限など、コロナ対応とも言える“新しい生活様式”が取り入れられてきました。 コロナの感染拡大が顕著になってから約1年。生活におけるそうした振る舞いは、私たちの日常に定着しつつあります。 オンラインでの注文、実は110年前にも? コロナによって広まった“新しい生活様式”には、人との接触機会を減らすオンラインへの移行も目立ちました。仕事の面ではオンラインミーティングシステムの導入などが進められたこともあり、テレワークが急拡大。 プライベート面では食料や日用品の購入にはインターネットの通販サイト、デリバリーサービスが盛んに活用されるようになっています。 ITの発達に伴ってネット通販が手軽になったわけですが、従来の店頭で商品を購入するという買い物の仕方や概念を大きく変えた先駆けが、三越百貨店(中央区日本橋室町)です。 三越は100年前の1911(明治44)年に電話販売係を新設。お客様から電話で注文を受け、それをメッセンジャーボーイと呼ばれる男子配達員が届けるシステムを導入したのです。 品ぞろえだけでなく「流行発信地」にも品ぞろえだけでなく「流行発信地」にも メッセンジャーボーイは、自動車・自転車などを使って商品を配達。配達可能エリアは現在の東京23区よりも狭い範囲でしたが、来店できない利用者に好評を博しました。 つまり三越は通信環境などが未発達の頃から、まるで現代のAmazonや楽天、UberEatsのようなサービスを始めていたのです。 三井呉服店をルーツとする三越は、三井財閥が銀行・物産・鉱山に事業を集約する方針から、1904(明治37)年に呉服店事業が切り離されたことから再スタートを切っています。 日本橋室町の三越百貨店本店の本館。重要文化財にも指定されている建物の外観はルネッサンス様式、内観はアール・デコ様式で風格と歴史が漂う(画像:小川裕夫) 再出発時、三越は“百貨”店と呼べるほどの品ぞろえではありません。まだ呉服店から派生したばかりで、髪飾りや化粧品といった衣類と関連性のあるグッズが目立ちました。 三越の支配人だった日比翁助(ひび おうすけ)は西洋で隆盛していたデパートメントストアに刺激を受け、何でもそろう百貨店を目指しました。日比はデパートメントストア宣言を発表し、旧来の呉服店から脱却を図ります。 三越は品ぞろえを充実させるだけではなく、社会の流行発信地になることも目指しました。 1905(明治38)年に文化人で組織する「流行研究会」を発足。流行研究会には森鴎外や新渡戸稲造なども名を連ね、これまでにない商品やサービスの拡張に努めます。 そうした取り組みで花開いたのが、帝国劇場とのタイアップという販促・広報戦略でした。 キャッチコピーを活用、一世を風靡キャッチコピーを活用、一世を風靡 帝国劇場は1911(明治44)年に開業していますが、1905年に三越へ入社した浜田四郎は帝国劇場の華やかな舞台、人を魅了する劇に着目。帝国劇場で配られるプログラムに広告を載せて、観劇後に買い物へと誘ったのです。 三越が帝国劇場のプログラムに載せたキャッチコピーは、「今日は帝劇、明日は三越」というものでした。このキャッチコピーは一世を風靡(ふうび)し、現在も語り草になっています。 三越百貨店のライオン像は、待ち合わせスポットにもなっている(画像:小川裕夫) しかし、このキャッチコピーは帝国劇場のプログラムです。来場者しか目にすることができません。そのため、アレンジが加えられて市井に流布していきます。 大正時代に入り流行した歌謡曲「コロッケの唄」では、三越と帝劇の順番が入れ替わり「今日は三越 明日は帝劇」と歌われました。 「コロッケの唄」の作詞者は益田太郎(ペンネームは益田太郎冠者)ですが、益田は帝国劇場の創立委員を務めています。 益田の父は、三井物産の創始者と言われる財界の大物だった益田孝です。父・孝も帝国劇場の設立発起人として加わる予定でしたが、その座を息子・太郎に譲っています。 太郎は後に父の跡を継いで実業界でも活躍しますが、根っからの演劇志向だったこともあって、企業経営よりも演劇活動に傾倒。帝国劇場の取締役を務めるかたわらで、たくさんの脚本を手がけるなど劇作家として活躍しました。 駅名に店の名前、ネーミングライツのはしり駅名に店の名前、ネーミングライツのはしり 三越の支配人だった日比も帝国劇場の創立委員でした。益田や日比といった多くの財界人を結びつけたのは、2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一です。 三越百貨店の東側にある常盤橋公園には、三越・帝劇とゆかりの深い渋沢栄一の像が建てられている(画像:小川裕夫) 渋沢は帝国劇場の創立委員長を務め、財界人のほかにも伊藤博文・西園寺公望(さいおんじ きんもち)といった政治家からも支援を取り付けています。 そして、渋沢が両者の関係を取り持ったことで、三越と帝国劇場は深い協力体制を築き、世間の流行をリードする存在になっていったのです。 三越は帝国劇場のプログラムに広告を載せただけではなく、舞台の緞帳(どんちょう)や座席の意匠といった内装も担当。また、俳優・女優の衣装や事務スタッフの制服なども調製しました。 このため、帝国劇場であこがれのスターを見た後に、同じようなファッションをしたいと考えるファンが三越へと殺到したのです。 流行発信地になろうとする三越は、新しいアイデアを積極的に導入しました。1927(昭和2)年に東洋初の地下鉄が開業すると、三越は建設費を負担するから店舗の前に駅をつくってほしいと請願します。 三越の請願は建設費の工面に悩んでいた地下鉄側にとって渡りに船でした。1932年、三越前駅が開業。これは現代版の命名権(ネーミングライツ)のはしりと言えます。 三越前駅の開業によって、多くの市民が地下鉄で買い物に来るようになりました。来店者数が増加したことに伴い、三越の売り上げ・知名度アップにつながったことは言うまでもありません。 幾度もの苦難を乗り越え、流行発信地に幾度もの苦難を乗り越え、流行発信地に さまざまな新機軸を打ち出すことで、三越は流行発信地として人々を魅了し続けました。百貨店の先駆けでもあり、明治から昭和にかけて世間のトレンドを生み出してきた三越ですが、その道のりは決して平坦ではありませんでした。 三越も、強いパートナー関係にあった帝国劇場も、関東大震災や戦時の経済統制、戦災、戦後は連合国軍総司令部(GHQ)による接収といった苦い経験をしてきました。そして今、コロナ禍に直面しています。 しかし、三越百貨店も帝国劇場も過去の苦難を乗り越えてきました。今回のコロナ禍も乗り越え、再び流行発信地として私たちをワクワクさせてくれることでしょう。
- 三越前駅
- 日比谷駅