JR中央線まぼろしの駅 中野~荻窪間に計画された「馬橋駅」とは何だったのか?
JR中央線・中野駅と荻窪駅の間にあるのは、ご存じ高円寺と阿佐ヶ谷。しかしその2駅ではなく「馬橋駅」をつくる計画がありました。「馬橋駅」は、なぜまぼろしに終わったのでしょうか? 編集者・ライターの小野和哉さんが歴史をたどります。明治22年、現在の中央線が開通 JR中央本線の中でも、特に新宿駅以西に位置する、中野・高円寺・阿佐ヶ谷・荻窪・吉祥寺辺りの沿線エリアは、いわゆる「中央線カルチャー」ともいうべき独特のサブカル文化を誇る地域圏として、昔から若者たちを中心に人気を集めています。 JR中央線・中野駅と荻窪駅の間にあるのは高円寺と阿佐ヶ谷。しかしその2駅ではなく「馬橋駅」をつくる計画があった(画像:小野和哉) 雑貨屋、古着屋、レコード店、カフェ、ライブハウス、ミニシアター、アーケードの商店街……。そんなものがよく似合うこの一帯も、かつてはキツネやタヌキ、ムジナなどが徘徊(はいかい)するのどかな農村地帯でした。現在、阿佐ヶ谷駅北口の西友がある場所に住んでいたという古老(1886年生まれ)による、次のようなワイルドな証言が残っています。 「駅の構内は殆(ほとん)ど田圃(たんぼ)で、ウチは田のフチにあったので、タブチと呼ばれておりました。(中略)私が30才頃(明治末年)今のオデオン座前辺りの線路の土手を横切る土管へ狸が逃げ込むのを見付け、皆を呼び集めて土管の両方より竹竿を差し込み、突っ突き大騒ぎをして捕えました。早速皆で、狸汁をサカナにして、1ぱいやりました。毛皮も意外に高く売れ、ビックリしました」(『阿佐ヶ谷駅60年』) 実際にタヌキやキツネが生息していたというだけでなく、そのような狐狸妖怪(こりようかい)の類いに化かされた、つかれた、あるいはタヌキに恩返しをされたという伝承も文献から数多く見つけることができます。 1889(明治22)年、甲武鉄道(現在のJR中央本線)が開通して、中野駅、荻窪駅が開業した当時も、杉並の地には田畑や雑木林が広がり、キツネとタヌキが駆け回っているような時代でした。 中野―荻窪間、どこに駅をつくるか?中野―荻窪間、どこに駅をつくるか? 阿佐ヶ谷の地主たちが新駅誘致に鉄道省へ陳情に行った際も、「あんな竹藪や、杉山ばかりの狐や狸の棲んでいる所に駅を作るなんて無理な話だ、いくら文明開花の世の中でも、狐や狸は電車に乗らないよ」と一蹴されたそうです(『杉並区史探訪』)。 杉並の交通の歴史は、明治初年の甲州街道と青梅街道を走る乗合馬車から始まりました。特に甲州街道においては、1911(明治44)年頃まで、乗合馬車が新宿の新町(新宿駅西付近)から調布の間を往復していたといいます。(『東京・ふる里文庫 杉並区の歴史』)。 甲武鉄道もまた、当初は東京から福生・羽生を経て青梅に至る馬車鉄道として計画されました。しかし、計画の途上で馬車鉄道が廃れはじめ、汽車が鉄道の主役となってきたため計画を変更。1888年に、鉄道敷設の仮免状の下附(かふ)となります。 路線は、人口の集中する甲州街道、青梅街道沿いに線路の敷設が予定されていましたが、旅人の素通りを恐れた宿場町や、耕作地の現象や作物の不作を憂慮した農民たちから大きな反対がありました。 当時の、和泉村(現在の杉並区和泉)ほか三か村から東多摩郡(現在の中野区・杉並区)郡長に出された上申書に書かれた 「農ヲ業トシ筋骨ヲ労シ漸ク露命ヲ繋ク小民ニ一銭ノ利潤ナクシテ却テソノ困難ヲ増サシメ鉄道会社ハ之ヲ見テ快トスルヤ、果タシテ然ラサルヘシ」 という一節には、農民たちの切々たる思いを感じることができます。 かくして、現在の中央線につながる甲武鉄道は、甲州・青梅両街道を大きくそれ、キツネやタヌキが遊ぶ田園・雑木林を一直線に貫く、新宿・立川の路線となりました(『新修 杉並区史(中)』)。 1889年に中野駅が、1891年には荻窪駅が開業。1919(大正8)年に吉祥寺まで電車が延長し、1922年には高円寺、阿佐ヶ谷駅が開業しました。 ここまで来ると、現在に至る中央線の体をほぼ成してきたといえそうですが、実は高円寺・阿佐ヶ谷駅開業に至る前には、その中間地点にあたるまぼろしの「馬橋駅」開業の計画があったのです。 「新駅は馬橋に」極秘の内示「新駅は馬橋に」極秘の内示 馬橋(まばし)、と聞いてもピンとこない方が多いと思います。1962(昭和37)年、住居表示法の公布によってその地名が廃止されるまで、高円寺と阿佐ヶ谷の間には「馬橋」と呼ばれる村が存在しました。 インターネットで「馬橋」と検索すると千葉県松戸市にかつて存在した「馬橋村」が真っ先にヒットしますが、両者の関係性はようとして知られていません。名前の由来は青梅街道を横断する小川に架けてあった橋が、馬でひとまたぎできるほど小さかったので「馬橋」と呼ばれたという説があるようですが、これも定かではないようです(『杉並区史探訪』)。 『杉並区史探訪』より、杉並のかつての行政区分(画像:小野和哉) ほかの杉並の村々と同様、田畑と山林によって占められ村内に、散村的に集落が点在するのが明治初年くらいまでの馬橋村の有様でした(『新修 杉並区史(中)』)。そんな村で、なぜ駅の計画が持ち上がったのか。その一部始終を『杉並区史探訪』所収の「阿佐ヶ谷、高円寺駅の誕生秘話」にもとづいて、簡単にまとめてみたいと思います。 先述の通り、阿佐ヶ谷の地元有志が新駅誘致の陳情をしたのが1919(大正8)年頃のこと。これに触発されたのか、馬橋村の有志も同様の陳情に出掛けましたが、実はこのとき、将来、新駅設置の際には、中野と荻窪の中間地点にあたる馬橋に駅をつくるという極秘の内示を受けていました。 馬橋村を南北に貫く現在の「馬橋通り」(当時は「中央道路」という名称)は、1919年から1922年にかけ、その内示を受けて下準備としてつくられたものでした。この道路建設のために、馬橋の住人たちは千数百坪の土地、2000円余り(現在の価値で2000万円ほど)を出し合ったといいます(「馬橋通り開通記念碑」)。 力ずくで誕生した高円寺・阿佐ヶ谷駅力ずくで誕生した高円寺・阿佐ヶ谷駅 しかし、この極秘の内示がふとしたきっかけで阿佐ヶ谷側に漏れてしまいます。慌てた阿佐ヶ谷有志は、青梅街道南側、現在の成田東に住んでいた衆議院議員の古谷久綱(ふるや ひさつな)に助力を請い、猛烈な誘致運動を展開しました。 問題は、その位置でした。すでに設置されていた中野駅と荻窪駅の位置関係からすると、阿佐ヶ谷はやや西側に寄り過ぎていました。 そこで、古谷は申請していた阿佐ヶ谷駅と中野駅の間にも駅をつくるという、なかば力ずくのプランを発案し、高円寺村へと掛け合いを行います。両村の合意を得た上で、再度鉄道省に折衝をし、ついに阿佐ヶ谷と高円寺への駅設置が決定しました。 JR中央線と馬橋通りの交差地点、ここに馬橋駅が開業していたのかもしれない(画像:小野和哉) 棚ぼた的な利を得た高円寺ですが、肝心の馬橋村はどうしてしまったのでしょうか。 1920(大正9)年春、鉄道省から正式に駅設置の決定が言い渡され、予定地の土地提供願、図面、駅開設願などの書類提出が求められました。ところが実際に土地提供について村内で寄り合いをしてみると、「われわれ貧乏人は電車に乗る用なんかない。駅が出来て得をするのはほんの一部の人間だけだ」と予想以上の反対意見が出てきました。 書類提出に時間がかかっているうちに、阿佐ヶ谷村の誘致運動が功を奏したのか、みすみす駅開業の栄光を明け渡してしまいます。 後日談として、阿佐ヶ谷駅開業に大きく貢献した古谷のために、駅から自宅まで人力車が楽に通れるようにと道が整備され、これが現在の「パールセンター商店街」へとつながっています。 今も残る「馬橋」の痕跡今も残る「馬橋」の痕跡「馬橋」という地名は地図から消滅してしまいましたが、「馬橋」の痕跡は町の至るところで確認することができます。 「馬橋」の名を残す、象徴的な場所のひとつが「馬橋稲荷神社」です。 鎌倉時代末期の創建と伝えられ、当初は単に「稲荷神社」という名前でしたが、1907(明治40)年には村内の無格社御岳神社、白山神社、天神社、水神社の4社を合祀(ごうし)して、「五社神社」と呼ばれるようになりました(『新修 杉並区史 資料編』)。 そして住居表示の改正が行われると、「馬橋」の地名が消えることを憂(うれ)い、1965(昭和40)年に「馬橋稲荷神社」と名前を改めました(「馬橋稲荷神社」ウェブサイト)。 立派な鳥居を持つ、馬橋稲荷神社(画像:小野和哉) また、ここ10年ほど、高円寺北中通り商栄会の主催で、杉並区立馬橋小学校を会場に「馬橋盆踊り」というイベントが行われています。 高円寺の阿波(あわ)踊り連が参加するほか、馬橋で行われていたという雨乞いの儀式を歌詞に取り入れた「馬橋ホーホツ音頭」のほか「とどろき豆太郎音頭」「馬橋音頭」といったご当地音頭が踊られ、馬橋地区の郷土意識を育む新しい機会となっているようです。 もし馬橋駅が開業していたら……もし馬橋駅が開業していたら…… 歴史に「if」はありませんが、閑静な馬橋通りを歩いていると、もし馬橋駅が開業していたらこの街はどのようなにぎわいとなっていたのだろうか、と思わず想像してしまいます。あるいは、甲武鉄道のルートが現在と違っていたら……。 高円寺、阿佐ヶ谷、華やかな町のはざまに現在もその痕跡を残す「馬橋」の歴史を、頭の隅にとどめておきたいと思います。
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