聴くだけでおしゃれさん? 90年代の若者が夢中になった「渋谷系」サウンドの淡き思い出
一世を風靡した「渋谷系」と赤いフタが目印だったポータブル・レコードプレーヤーについて、ルポライターの昼間たかしさんがその軌跡をたどります。流行の発信地であり続ける街・渋谷 渋谷駅前のランドマークである東急東横店が85年の歴史に幕を閉じ、渋谷の再開発もいよいよ新たな段階に入ろうとしています。 筆者(昼間たかし。ルポライター)、90年代の学生時代は長らく東急線沿線住民だったので、もっとも近い都会は渋谷でした。 思い出深い東急文化会館のプラネタリウムもはるか昔の話。今よりずっと怪しげだった百軒店(ひゃっけんだな)も、店のおじさんが客に注文を選ぶ隙も与えず「卵入りムルギーでよろしいですね!」と勝手に決めちゃうカレー店「ムルギー」(渋谷区道玄坂)は、なんだかオシャレな店になってます。 名曲喫茶ライオン(同)で「今日もモテなかった、明日はモテるだろうか……」と陰鬱(いんうつ)な青春を送っていたのを、今でも思い出します。 さて、80年代から若者の街として台頭した渋谷がひとつの頂点を迎えるのは90年代半ばからのことです。 「渋谷系」サウンドの定義とは「渋谷系」サウンドの定義とは その軸となったのが「渋谷系」と呼ばれる音楽ジャンルです。これを誰が最初に言い始めたのかは、諸説がありますが、フリッパーズ・ギターやオリジナル・ラヴ、ピチカートファイヴ、小沢健二、小山田圭吾、ラヴ・タンバリンズなどが渋谷系と呼ばれます。 オリジナル盤は1990年6月に発売されたフリッパーズ・ギター通算2作目のアルバム『CAMERA TALK(カメラ・トーク)』(画像:(P)2006 POLYSTAR CO.,LTD.(C)POLYSTAR CO.,LTD.) それぞれ音楽性はまったく違います。では、どこが共通項だったのか。『AERA』1994(平成6)年7月11日号では、次のように分析しています。 1.古今東西のポップスを聴き込んできた音楽的な素養、アイデアの豊富さ 2.過去の作品からも自由に「引用」する、DJ的発想 3.ポップなメロディー、分かりやすさ、大衆性 そんな風にふんわりと概念はあるものの、それぞれ音楽性の違うアーティストをひとくくりにする「渋谷系」という言葉は、当初はとても不評でした。アーティストの側としては確かに当然でしょう。 ところが、次第に「渋谷系」という言葉はポジティブな意味に変化していきます。というのも、テレビや雑誌で宣伝を打たれるヒモ付きの音楽ではないということに次第に注目が集まっていったのです。 ブームをけん引したレコードショップ 渋谷系を盛り上げたのはレコード会社ではなくショップでした。 それまで、音楽というものはレコード会社が大がかりな宣伝をして全国津々浦々で売れているようなのが常識。ところがここで生まれたのは、全国的には知名度は低くとも「渋谷じゃ、けっこう売れている」という新たな価値観だったわけです。 さまざまな文化の発信源となったタワーレコード渋谷店(画像:(C)Google) そこで人気を獲得したアーティストたちは、テレビや新聞、雑誌ではなくレコードショップにおいてあるチラシやミニコミ誌を通じて、口コミでファンを獲得していったのです。 渋谷系が広く認知され始めた時期の『宝島』1994(平成6)年2月9日号では、こんな風に解説をしています。 「これらのアーティストたちは最近、CMやTV番組の主題歌等で広く話題になってきているが、そうなる以前からHMV渋谷では確実に売れ続けてきた。独自のディスプレーや、フリーペーパーの発行、インディペンデント・まあジンの販売等を通して、現場(店頭)からいち早く情報を提供し、イイ音楽や新しいモノを求めている街の子のアンテナを刺激する」 レコードを再びスターの座に押し上げた名機レコードを再びスターの座に押し上げた名機 このようにレコードショップが流行発信源となったのは、渋谷が神田の古書店街や秋葉原の電気街に匹敵する「レコードタウン」になっていたことが挙げられます。 現在の渋谷(画像:写真AC) 90年代渋谷には、タワーレコード・HMV・WAVEという大型店がそろい踏み。そこに、シスコ・レコファン・ディスクユニオンといったマニアックな店までありました。 その隆盛を受けて、それまで西新宿が拠点となっていた怪しげなレコードショップも渋谷に移動していく現象も見られました。 最盛期には東急ハンズの周囲100mあまりに20軒を超えるレコードショップが集積していました。 赤いフタのプラスチック製のアレ そんな渋谷系の隆盛のなかで、突如売れたものがあります。日本コロムビアのポータブル・レコードプレーヤー「GP-3-R」です。 赤いフタが目印だったポータブル・レコードプレーヤー「GP-3-R」の人気はすさまじく、2019年には復刻版が登場した(画像:太知ホールディングス、ANABAS) おそらく40代以上の人なら見たことがあるであろう赤いフタのプラスチック製のアレです。 この時期、すでにレコードはCDに押されて絶滅危惧種になっていました。 もはや、ポータブル・レコードプレーヤーを製造販売しているのも日本コロムビアだけ。教育需要があるので生産はしていましたが1994(平成6)年にはたったの5000台しか売れていないたそがれ商品でした。 ところが、これが突如として若者たちが欲しがるアイテムに変貌します。 ファッションとして持ち歩く若者も登場ファッションとして持ち歩く若者も登場 きっかけは、ピチカートファイヴのプロモーションビデオに小道具として登場したこと。それを小西康陽が気に入ったことがきっかけとなり、1995(平成7)年12月に限定版のピチカートモデルを発売したところ3000台が瞬く間に完売。 HMVでは2日間で150台が売れるという現象も起こりました。 当時、レコードを発売するアーティストも出てはいましたが、購入者の主な目的はインテリアとしての利用。それどころかファッションアイテムとして街で持ち歩いている人もいたのです(『週刊プレイボーイ』1996年3月12日号)。 もともとがけっこう無理やりなジャンル分けであった渋谷系そのものは、2000年頃には失速していきます。 完全復刻版「GP-N3R」の発売を告げる企業サイト(画像:太知ホールディングス、ANABAS) とはいえ、音楽をひとつの軸として生まれた文化は、いまだに生き続けているのです。再開発で変貌する渋谷から、次はどんな文化が生まれるのでしょうか。 なお「GP-3-R」は生産を終了しましたが、2019年には別会社から復刻されるほど今も根強い人気を誇っています。
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