黒い溶岩は家も車も飲み込んだ――1983年「三宅島大噴火」 今も残る自然の爪痕とは
約20年ごとに噴火を繰り返す東京・三宅島。そんな同島に残った「爪痕」を紀行作家の斎藤潤さんが歩きました。400棟以上の家屋が飲み込まれた阿古地区 1940年、1962年、1983年、2000年――。 この年を見て、「20世紀に三宅島が噴火した年」とわかる人は火山博士か、もしくはかなりの三宅島通でしょう。ほぼ20年刻みということは、そろそろまた……。縁起でもないと思うかもしれませんが、確実にやってくる災害には備えるべきです。 火山災害の恐ろしさを目の当たりにして、自分なりに考えられる場所があります。それは1983(昭和58)年のわずか15時間ほどの噴火で、集落の大半400棟以上の家屋が溶岩に飲み込まれ、現在はかつての集落の上に火山体験遊歩道が整備された、島の南西部に位置する阿古(あこ)地区です。 海辺にできた割れ目火口の火口壁(画像:斎藤潤) もう10年以上前ですが、島の人たちの研修ツアーに参加させてもらったときの体験を紹介しましょう。現在は、その時より緑も回復しています。 溶岩に挟まれたクルマの残骸 島内各地を巡り阿古に差しかかると、海側には光をすべて吸収する溶岩に覆われた黒々とした大地が広がり、周辺を縁取るように緑の草木や家々が見えました。 「観光客の場合はここでとまりますが、皆さんはいいですね。通過しま~す」 少し進んでから、バスが一瞬停車しました。 「ご存じと思いますが、溶岩に挟まれているクルマの残骸です」 のり面の隙間からさびたエンジンやシャフトが顔をのぞかせている。溶岩で寸断された都道を開削した時、あらわれたらしい。 阿古に残る溶岩に挟まれたクルマの残骸(画像:斎藤潤) 一部は草で覆われ色も溶岩と同系統なので、注意していないと見落としてしまいそうでした。 「えーこんなのあったのー。うそ~、知らなかったー」 「私は最初に島にきたとき、連れてこられたわよ~」 というのは、多分島外から嫁いできた人でしょう。島人でも行動範囲が異なったり、島外から嫁いできたりで、けっこう知らないようです。 「この辺は阿古銀座と呼ばれた繁華街でしたが、今はこんな風になってしまいました。港周辺には、かつお節やムロ節の製造所もたくさんあったんですよ」 噴火の生々しい体験を語る元校長噴火の生々しい体験を語る元校長 溶岩の防波堤となって流れを食い止めたものの、ほとんど飲み込まれてしまった阿古小中学校の廃墟は鬼気迫るものでした。辛酸をなめた地元の人には申し訳ないが、火山の脅威を身近に感じるためにも、ぜひ多くの人に見てもらいたい光景でした。 火山体験遊歩道と1983年の噴火で溶岩に埋まった校舎(画像:斎藤潤) 当時小学校の校長をしていた窪寺さんが、しみじみとした口調で語ってくれました。 「昭和58年10月3日の噴火のとき、私は阿古小学校にいたんですよ。ポッポッと白い湯気が上がってしばらくすると、窓がビリビリ震えたんです。そのときは砂粒が噴き出しているように見えた岩は、人が抱えきれないくらい大きなものでした。それが、ポーンポーンですよ。小学校は大丈夫、と言われていました。私も、まさかここまで溶岩はくるまいと思っていたら、アッという間に迫ってきて、慌てて重要書類をもって漁船で避難したんです」 至るところ火山の痕跡だらけという島にあっても、阿古は噴火の多発地域で、火山にまつわる神社がたくさんあると言います。火戸寄(ほどり)神社など、名前からしていかにもそれらしい感じがします。 「八十司(はづじつし)神社は、噴火した場所に次々と神社を祭っていったところ、あまりにも多くなり過ぎたためこの一社にまとめたものです」 噴火常襲地帯らしい、なんともすさまじい話ではないですか。 「次は富賀(とが)神社ですが、残念ながら下車できません」 間もなく、高濃度地区立ち入り禁止の看板が立っていました(現在は解除)。事代主命(ことしろぬしのみこと)が葬られた場所という富賀神社は、三宅でも重要な神社のひとつで、島人にもなじみ深く、初詣の参拝客も多い場所です。 「あ~あ、こんなになっちゃったんだ」 神社周辺の山は立ち枯れた白骨樹で覆われ、境内は整備中なのでしょう、木はほとんど伐採され荒涼としていました。 窪地に変わり果てた池窪地に変わり果てた池 救いは、白骨樹の下で緑の葉をつけた草木が茂っていたこと。近くの富賀浜では下車しました。 「あの辺りに、(アメリカの海洋生物学者の)ジャック・モイヤーさんの家があったんですよ」 「富賀神社、富賀浜の鳥居、三本嶽(さんぼんだけ。沖の小島で周辺は好漁場)は一直線上にあって、そこを横切る時はお供えをしないといけないんです」 「女は横切っちゃいけないって、聞いてるわ」 まだ、いろいろと伝承が生きているようです。 旧新澪池(しんみよういけ)前で下り、海岸線へ向かいました。くっきりそびえ立つ御蔵島を左手に見て、岩だらけの海岸線を進みます。 「割れ目火口はあちこちにありますが、見てもらうのに適当な場所がなかなかなくて」 行く手に立ちふさがった赤黒い断崖が、火口壁でした。 「昭和58年の噴火のとき、ここで水蒸気爆発が起きて、海岸にきれいなドーナツ状の海水の池ができたんです。あれから二十数年たって波に侵食され、池も埋もれてしまった。今立っている場所は、その池の中なんですよ」 かつては摩周湖のたたずまいがあった新澪池の跡(画像:斎藤潤) 窪寺さんが、栞(しおり)に載っている池ができた当時の写真を指しました。海の方はすっかり開けて大空が広がっていますが、今も三方はぐるりと絶壁や急崖に囲まれているので、当時の様子が想像できます。一瞬にして生まれ、わずか20年で消えた池。 なんという激動の島でしょう。窪地に変わり果てた新澪池を目の当たりにして、その思いはさらに強まりました。 爆発でわかった伝承の重さ 黒々とした深い森に囲まれ、鏡のように静かな水面をみせていた新澪池は、初めて三宅島を訪れたときに一番感銘を受けた場所だったので、1983年の噴火で新澪池が消えたのは衝撃的でした。 火山体験遊歩道。この下に旧阿古集落が眠る(画像:斎藤潤) 窪寺さんが、しんみり言いました。 「以前、阿古のオバァさんから『阿古には池があったが、阿古の衆が水を汚したので、神様が怒って一晩のうちに池をよそへ移してしまった』と聞いたことがあったが、新澪池の爆発を経験して、伝承の持つ内容の重さには驚くべきものがあると思いました」
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