昭和の大作詞家・阿久悠の描いた世界観が「コロナ禍の東京」と酷似している理由
昭和を代表する数々のヒット曲を生み出した作詞家・阿久悠氏。彼の作品をたどると、「上京」よりもむしろ「離京」を描いたものが多いことに気づきます。そこに込められた思いとはどのようなものだったのか。法政大学大学院政策創造研究科教授の増淵敏之さんが足跡を追いました。生涯に書いた作品は5000曲 2021年3月に兵庫県洲本市でセミナーをやることになり、下調べをしていくうちに作詞家、阿久悠の故郷だったという事実に気がつきました。最近はコロナ禍のなかで地方の仕事が増えていて、地域振興や観光振興のお手伝いをすることが多くなりました。 阿久悠はご存じのように昭和歌謡を代表する作詞家で、生涯に書いた曲は5000曲。代表作には「北の宿から」(都はるみ)、「津軽海峡・冬景色」(石川さゆり)、「UFO」(ピンク・レディー)、「ロマンス」(岩崎宏美)、「勝手にしやがれ」(沢田研二)、「ジョニィへの伝言」(ペドロ&カプリシャス)、「また逢う日まで」(尾崎紀世彦)、「雨の慕情」(八代亜紀)など枚挙に暇がありません。 レコード大賞受賞曲を5曲も手掛け、シングルの売り上げは2015年時点で7000万枚近くを誇っています。また小説家としても代表作『瀬戸内少年野球団』などで直木賞に3回もノミネートされています。 さて阪神淡路大震災から2021年の1月17日で26年になりました。淡路島も復興が進み、瀬戸内海のリゾートとして近年、脚光を浴びていますが、それでも人口減少に直面しています。震災前の1990(平成2)年、淡路島の人口は16万6218人でしたが、2021年1月1日の人口は13万2357人とおよそ2割も減少しました。 兵庫県が発表した2019年12月1日時点の推計人口で、洲本市の人口が(4万1596人)淡路市(4万1630人)を 34人下回り、洲本市と淡路市の人口順位が逆転しましす。 島内3市のうち残る南あわじ市は4万4000人台を保っており、淡路島の中心都市だった洲本市は3市のなかで最少人口になってしまいました。洲本市の人口は1950(昭和25)年には6万8414 人でしたので、着実に過疎化が進んでいるとみていいでしょう。 阿久悠と東京との距離感阿久悠と東京との距離感 さて阿久悠は洲本高校の出身で、高校卒業後、明治大学に進学します。 当時は明石まで連絡船、明石から神戸、そして東京へは列車での長旅でした。しかし彼本人は淡路島を故郷だと思ったことはなかったそうで、その理由としては父親の出身地が宮崎で、また父親が警察官をしていたので、淡路島内での転居が多かったことに起因しているようです。 また学生時代や最初に就職した広告代理店「宣弘社」時代には東京都内、都下の転居を繰り返しますが、自宅を始めて構えたのは横浜市の戸塚。そしてその後は都内に仕事場を構えますが、静岡県伊東市に転居します。 この転居行動で阿久悠と東京の距離感がわかるかもしれません。生活の場としては東京に特段のこだわりはなかったように思えます。 明治大学の阿久悠記念館(画像:増淵敏之) 先日、明治大学阿久悠記念館(千代田区神田駿河台)を訪れてきました。お茶の水にある明治大学のアカデミーコモンの地下1階にある、こぢんまりとしたスペースです。2010(平成22)年、遺族から明治大学に自筆原稿含めて資料1万点が寄贈され、彼の業績を称えるとともに、その遺産を次世代に継承していくために開館したとのことです。 記念館で公開している自筆の原稿はやはり見応えがありました。歌詞のタイトルは自分でロゴのようにデザインし、ほとんど書き損じがありません。 「東京は近くなったのである」「東京は近くなったのである」 筆者(増淵敏之、法政大学大学院教授)自身も阿久悠関連の資料はいくつか集めてみましたが、とくに興味深かったのは、雑誌『東京人』2017(平成29)年9月号の特集『阿久悠と東京』でした。 彼と一緒に仕事をしたテレビプロデューサー鴨下信一と小説家の重松清の対談、岩崎宏美、小林亜星、飯田久彦へのインタビューと豪華なラインナップですが、再掲載として『東京人』1998(平成10)年3月号の特集「春いちばん『上京物語』」に寄稿した本人の寄稿「歌の中に東京がある」は、阿久悠の東京観を示したものといえるかもしれません。 『東京人』1998年3月号(画像:都市出版)「東京は近くなったのである。近くなると未知なるものが薄れ、有難みも怖れも消える。ただ便利さを他よりたくさん持った都市ということになる。そうなると『上京』よりも、むしろ、『離京』にドラマが生まれるのも無理からぬことである」 と彼は述べます。 確かに彼の作品には「上京」より「離京」のドラマを描いた作品が多いことに気がつきます。 そして以下のように続けています。 「東京は巨大な宇宙船だ でも 乗るには免許証がいる―ぼくのうたの主人公たちが『離京』するのは、東京で生きるための免許証の書き換えだと思っている」。 コロナ禍で変わる東京の立ち位置コロナ禍で変わる東京の立ち位置 コロナ禍以降、ワーケーション(仕事と休暇の両立)や多拠点居住の話が増えました。阿久悠の生きた時代にも増して、インターネットの普及などにより東京と地方の距離感がさらに近くなったのは、紛れもない事実です。 総合人材サービスのパソナグループは本社を淡路島に移転、大手芸能プロダクションのアミューズも富士山麓に本社を移転するような話も聞こえてきます。実は冒頭で触れた洲本市のセミナーも、ワーケーションの実践を兼ねての実証実験です。 洲本市の住民のみならずインターネットを通じて全国に発信といった形になるかと思います。おそらく東京のポジショニングには変化が生じてきています。テレワークが一般化したのも、その傾向や風潮を後押ししているに違いません。 実際、大学でもコロナ禍以降はほとんどオンライン授業でしたし、格段の不自由は実際、あまり感じませんでした。ただ、まちを気ままに歩き回ることができなくなったのは、まち歩きが趣味の筆者にとっては難点でした。 洲本市に行って阿久悠の足跡を辿(たど)ってみるつもりです。そして同時に東京のこれからの可能性や役割についても改めて考えてみようと思います。 「グローバルリセット」のあとの東京についてということになりますか。東京の新たな魅力創出が求められる時代が到来したということでもあります。
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