東京の「自由」はコスパ悪すぎ……と気づいて、年収90万円生活を選んだ私【連載】大原扁理のトーキョー知恵の和(3)
上京したら、不自由になってしまった私 自由って何でしょう。自由を求めて上京した東京で過ごす日々は今、自由ですか? それとも、そうでもないですか? 期待に胸を躍らせた想像とは違って、以前とさほど変わらない日常が続いていただけでしょうか。東京で週休5日・年収90万円の「隠居生活」を実践した大原扁理さんは、都会で感じる自由・不自由について「どこで何をしていても満足にありつける『心の有りよう』こそが自由なんだ」と語ります。その話、もう少し詳しく聞かせてもらえますか?(構成:ULM編集部) ※ ※ ※ ※ ※ 21歳のころ、私はひとりで海外をほっつき歩いてました。とくに目的もなかったので、てきとうに住みついて働いて、いやになったら明日ほかの国に行く。めっちゃ自由! そんな生活を2年弱続けたあと帰国して、また目的もないのに「おもしろそうだし」というだけで上京してみたのです。 そうしたら家賃が高すぎて、その日をやっていくのに精いっぱい。余裕がなくてどこへも出かけられなくなってしまいました。 せっかく東京に住んでるのに、遊びに誘われても必死で断り、好きなミュージシャンのライブにも行けず。ひどいときは地元に帰省する交通費にも事欠く有り様で、住んでいたシェアハウスのメンバーにお米とかもらって何とか生きてました。めっちゃ不自由……。 若い私にとって、「自由」の基準は単純明快、「やりたいことができるかどうか」しかありませんでした。 「不自由なのに満ち足りている」という体験 しばらく都内でそんなギリギリライフを送ったのち、25歳のときに、家賃の安い(月々2万8000円!)都下・国分寺市で週休5日の倹約隠居生活を始めました。 すると、年収は100万円を下回り、さらにどこへも行けなくなり、「用事が3つ以上なければ中央線から出ない」をマイルールとして課していました。 国分寺市という郊外から都心へ出ると、往復で1000円以上かかります。当時は1日の食費が300円くらいでしたので、3日分強の食費が移動だけでなくなるなんて許せん! だから吉祥寺ぐらいまでなら、五日市街道を小一時間かけて自転車で行ってました。まあ、自分で選んだ生活とはいえ、あまり働いてなかったので当然なんですけどね。 大原さんの「隠居生活」の様子を描いたイラスト(画像:大原扁理さん制作) でも、都内での生活と比べると、経済的な贅沢がほぼできないことに変わりはないにも関わらず、不思議なことに毎日とても満足していたんです。あのころ私が考えていた「自由」と実際の「満足感」とは、必ずしもセットじゃないのかもしれない、と思い始めました。 つまり「満足にありつける心の有りよう」つまり「満足にありつける心の有りよう」 その「満足感」は、どこから来るものなのか。 隠居生活を始めてからは、生活費がぐっと下がったので、必要最低限の生活費を稼いだら、それ以上会いたくない人に会わなくていい。行きたくない場所に行かなくていい。やりたくないことをやらなくていい。これって、意外と満足感あるかも……。 都内では、分不相応な家賃を支払うためにかなり無理をして、バイトを掛け持ちするしかなかったんです。それが、国分寺に移ってからは「忙しすぎて昼食もとらせてもらえない仕事なんてさっさと辞めよう」、という選択肢ができたのもよかった。 買いたいものが買える、行きたいところに行ける、会いたい人に会える、つまりやりたいことが何でもできる。それもひとつの自由だと思っているし、今でもそれは変わりません。 でも、その「自由」にはだいたい『有料』という条件がついています。 なので、叶えるためにはお金を稼がなくてはいけない。お金がないと自由になれないっていうのは、逆に不自由という気がします。 買い物しなくても、遠くに出かけなくても、人に会わなくても満足できるなら、それもまたひとつの「自由」。現在の私は、どこにいても、何をしていても満足にありつける心の有りようって、すごく「自由」なことだと思っています。 今すぐできる! 「自由」の練習 要するに、「自由」を何かに依存している状態が「不自由」と感じるんですよね。だから依存をやめれば、「自由」を増やせるはず。そこで私が日ごろから「自由」のために気をつけていることをふたつ挙げてみます。 まず、楽しみごとをお金に依存しないこと。 お金があるときしか楽しめない状態って、お金がないとけっこう辛いですよね。私は身の回りのことから、お金がなくても楽しめることを見つけるようにしていました。だいたい、「お金を払って人にやってもらっていること」を探し出しては、人に任せず自分でやってみる、というパターンが多い。 たとえば東京に住んでいたころは、食材をスーパーで買う代わりに多摩川沿いで野草を摘んで食べたりしてました。 そうすると、わざわざ遠出しなくても、近所を散歩しているだけで、道端に生えている草が食べられるものかどうか気になってくるんです。それで世の中にがぜん興味がわいてきて、図書館で調べたり、頭の中で野草マップを作ったり、飽きることがなかった。 大原さんの「隠居生活」の様子を描いたイラスト(画像:大原扁理さん制作) お金がなくても、楽しみごとなんて道端に24時間タダで生えてるじゃん。そういうことがわかると、ひとつ肩が軽くなります。 次に、アイデンティティーを、住む場所ややっていることに依存しないこと。 縁あって隠居生活のことを本に書く機会があったのですが、『年収90万円で東京ハッピーライフ』とかいうタイトルだったために、世間の人からそういう人なんだと認識されるようになりました。 でも本人としては「結果としてそうなった」だけで、そこにアイデンティティはありません。出版した直後に「年収90万円で東京でハッピーに生きてる人」をあっさり捨てて、台湾へ引っ越して、年収もさらに減ってしまいました。 完璧ではない「ほころび」のなかに自由がある完璧ではない「ほころび」のなかに自由がある 今までもこれからも、「自分がどこに住んで年収いくらか、みたいなことはどうでもいい」……これくらいにしておくと、何より自分がラクなんですよね。 注意点としては、前段のような自由があってももちろんいい、ということ。それから、全部を完璧にやるのが目的ではない、ということです。 いちばん大事なのは、今日この1日を、なるべく悔いなく楽しく生きること。それを邪魔する「自由」なら、もしかして必要ないのかもしれません。
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