新宿からわずか15kmの原風景 森と水田に囲まれた三鷹市「大沢地区」をご存じか
東京都の多摩地域東部に位置する三鷹市。そんな同市の西端に位置する大沢エリアは自然が豊かで、のどかな場所として知られています。その魅力について、ライターの野村宏平さんが解説します。 自然豊かでのどかな大沢エリア 東京23区に隣接している三鷹市は都心からもさほど時間がかからず、多摩地域のなかでも人気の高いベッドタウンです。大部分は市街地化されていますが、鉄道の駅から少し離れれば、昔ながらの自然がけっこう残されています。 三鷹市大沢にある水車経営農家(旧峯岸家)。茅葺き屋根の母屋は1813年頃の建築。奥の建物が「しんぐるま」のある水車小屋。(画像:野村宏平) 市の西端に位置する大沢はとりわけ自然が豊かで、のどかなエリアです。代表的な施設といえば、国立天文台(三鷹市大沢2)と国際基督教大学(同3)でしょう。どちらも緑に包まれた広大なキャンパスのなかに歴史的建造物が点在し、通常時なら一般人でも構内を散策・見学できるのですが、残念ながら現在は新型コロナウイルスの影響で、関係者以外の入場が制限されています。 しかし大沢周辺には、ほかにも見どころがたくさんあります。それらを紹介してみることにしましょう。 国分寺崖線と野川 大沢を語るうえで欠かせないのが、町の中央を縦断する国分寺崖線と野川です。 国分寺崖線は古代の多摩川が武蔵野台地を侵食することによって形成された約30kmに及ぶ長い崖で、立川市から国分寺市、小金井市、三鷹市、調布市、世田谷区を経て大田区まで続いています。 三鷹市大沢周辺の地形(画像:国土地理院) 国分寺市から世田谷区まで、この崖下を流れているのが野川です。 野川沿いはどのエリアでも緑が多く、自転車歩行者専用道路が整備されているので散歩やサイクリングを快適に楽しめますが、大沢まで来ると、東岸には水田と森が広がり、西岸では水車がまわっているという、新宿からわずか15kmの場所とは思えないような風景を見ることができます。 水田と水車と茅葺き屋根が残る「大沢の里」 この場所は、地域全体を博物館ととらえるエコミュージアム構想のもとに生まれた「大沢の里」(大沢2)と呼ばれる一帯で、武蔵野の農村の原風景が保たれています。公共交通機関を使って訪れる場合は、JR中央線の三鷹駅南口から「鷹52」系統のバスに乗り、「竜源寺」で下車するのが便利です。 もともとこのあたりには数軒の水車農家があったそうですが、現在も茅葺き屋根の水車経営農家(旧峯岸家)が残っており、1808(文化5)年頃に造られた「しんぐるま」と呼ばれる製粉・精米用の大型水車装置が極めて良好な状態で保存・公開されています。 水車経営農家で保存されている水車装置「しんぐるま」。直径4.6mの水輪は新たに作り直されたもの(画像:野村宏平) この「しんぐるま」は、野川の護岸工事によって水流が変化した1968(昭和43)年頃まで、約160年間にわたって稼働していたといいます。そのほか敷地内には大正時代に建てられた土蔵や物置などが残り、ここで使われていた民具も展示されています。 見学は有料(200円、中学生以下は無料)ですが、ここの入館券があれば、対岸にある大沢の里古民家(旧箕輪家住宅主屋)にも入ることができます。 大沢の里古民家は、湧き水を利用して江戸時代からこの地でワサビ栽培を営んできた箕輪家の母屋です。1902(明治35)年に建てられ、1980年頃まで住居として使われていましたが、2007(平成19)年に三鷹市に寄贈され、復元・整備工事を経て、2018年から一般公開されるようになりました。家の周囲には、ワサビ田と湿生花園も広がっています。 この建物の裏が国分寺崖線ですが、竹林と雑木林のなかに設けられた自然観察路の坂道を登っていくと、ちょっと変わったものが待ち受けています。出山横穴墓群(でやまおうけつぼぐん)と呼ばれる7世紀頃の墓です。崖の斜面を横に掘って遺体を埋葬した墓で、現在、10号墓まで発見されていますが、そのうちの8号墓が一般公開されています。 この墓からは4体の人骨が発見されたそうですが、特徴的な石積みの奥に置かれたレプリカの人骨がガラス越しに展示されています。「大沢の里」のなかでも、独特の雰囲気をたたえた神秘的なゾーンといえるでしょう。 調布飛行場と武蔵野の森公園調布飛行場と武蔵野の森公園 水車経営農家のすぐ西側には調布飛行場(調布市西町)があります。1941(昭和16)年、東京調布飛行場として開設され、その後、陸軍や米軍の管理を経て、1973年に返還。現在は伊豆諸島への航空便が運航されています。荒井由実の「中央フリーウェイ」に出てくる「調布基地」といえば、ピンとくる人が多いかもしれません。 この飛行場の南北に隣接しているのが、都立武蔵野の森公園(府中市朝日町3、調布市西町、三鷹市大沢5~6)です。南側は主に野球場やサッカー場などのスポーツ競技場として利用されていますが、北側は大きな芝生と池が広がる開放感あふれる公園になっています。 小高く盛り土された「ふるさとの丘」や「展望の丘」からは調布飛行場と味の素スタジアムを一望することができます。今回の東京オリンピックでは、この公園が自転車競技ロードレースのスタート地点になりました 武蔵野の森公園に残る掩体壕大沢1号。描かれている戦闘機は太平洋戦争に実戦投入された三式戦闘機「飛燕」(画像:野村宏平) 公園の北東には戦争遺跡として、旧日本軍の掩体壕(えんたいごう)が2基残されています。掩体壕というのは、地上で待機している軍用機を空襲から守るための格納庫です。ここの掩体壕は大沢1号および2号と呼ばれ、かまぼこ型をしたコンクリート製の覆いがフェンスに囲まれて展示されています。 戦時中、調布飛行場周辺では数十基の掩体壕が造られたといいますが、現在はこの2基のほか、府中市白糸台と朝日町に2基が残るだけとなっています。 近藤勇ゆかりの地 調布飛行場の北側を通る人見街道沿いは、三鷹市、調布市、府中市の境界線が複雑に入り組んでいますが、このあたりは新選組局長だった近藤勇ゆかりの地としても知られています。 まず、人見街道から多磨町通りが分岐する地点には、近藤勇の生家跡(調布市野水)があります。1834(天保5)年、この地で宮川久次郎の三男(幼名・勝五郎)として生まれた勇は、15歳で天然理心流・近藤周助に入門。翌年、周助の養子となったのち、近藤勇と名乗るようになりました。 生家である宮川家は立派な母屋のほかに蔵屋敷や文庫蔵、納屋などを備えた大きな農家で、1943年まで残っていましたが、調布飛行場から飛び立つ戦闘機の妨げになるとの理由で取り壊されてしまいました。 現在は、勇が生まれたとき産湯に使ったと伝えられる井戸が残されているだけですが、隣には、1926(大正15)年に東京の軍人たちが勇を祭った近藤神社が寄り添うように建っています。 人見街道の向かい側に見える古い木造建築は、近藤道場・撥雲館(はつうんかん)です。勇のおいで婿養子でもある近藤勇五郎が1876(明治9)年に開いた天然理心流の道場で、館名には、暗雲を取り除くという意味があります。命名したのは山岡鉄舟だと伝えられています。 ここから人見街道を東に進むと、左手に勇の胸像が見えてきます。勇の墓所として知られる龍源寺(大沢6)です。 近藤勇胸像やゆかりの石碑が並ぶ龍源寺前(画像:野村宏平) 勇は1868(慶応4)年、板橋の刑場で斬首されましたが、勇五郎らが首のない勇の胴体を掘り起こし、龍源寺に埋葬したといいます。 ちなみに、勇の墓所はここ以外にもいくつか存在しており、新選組の同士だった永倉新八が処刑場の近くに建立したJR板橋駅東口前の供養塔、新選組副長だった土方歳三が勇の遺髪を埋葬したといわれる福島県会津若松市の天寧寺、勇のいとこ・近藤金太郎が首をひそかに埋葬したとされる山形県米沢市の高国寺が知られています。 野川公園と武蔵野公園野川公園と武蔵野公園 近藤勇生家跡の裏手には、野川公園が広がっています。もともとは国際基督教大学のゴルフ場だったところですが、東京都が買収し、1980(昭和55)年、緑豊かな広大な公園に生まれ変わりました。三鷹市、調布市、小金井市の三市にまたがっており、野川沿いには野趣に富んだ自然観察園、東八道路の南側には大芝生やアスレチック、テニスコートなどがあります。バーベキュー広場と少年キャンプ場も併設されていますが、新型コロナウイルスの影響で当面のあいだは使用中止となっています。 野川公園の西側には西武多摩川線が走っていますが、その高架下をくぐると、武蔵野公園というべつの都立公園が広がっています。かつてこのあたりの野川沿いは広大な水田地帯でしたが、現在は公園の一部に組み込まれて整備され、人々の憩いの場に生まれ変わりました。 公園の北側に見える国分寺崖線の下には雑木林に覆われた「はけの道」が続いています。「はけ」というのは崖を意味する言葉ですが、道沿いには「ムジナ坂」と呼ばれる情緒たっぷりの階段坂、「はけの小路」と名付けられた遊歩道、はけの森美術館(小金井市中町)などがあり、みちくさ好きにはたまらない散歩コースになっています。 「はけの道」沿いにあるムジナ坂(画像:野村宏平) いっぽう、武蔵野公園の南側には多磨霊園、浅間山公園、府中の森公園といった大きな公園が連なっています。 また「大沢の里」から東方へと目を向ければ、深大寺や神代植物公園があります。JR中央線と京王線に挟まれたこの一帯は、東京近郊の平野部でありながら豊かな自然と風情を満喫でき、歴史的にも興味深い、極めて貴重でぜいたくなエリアといえるでしょう。
- 三鷹駅