かつて国会議事堂は「日本一高い」ビルだった――東京でたどる歴代最高層建築の数々
時代とともに移りゆく東京の高層建築 2021年1月31日(日)、世界貿易センタービル(港区浜松町)の40階にあった展望ラウンジ、シーサイドトップが営業終了となりました。浜松町二丁目地区の再開発にともなうビルの解体に先立つもので、最終日となった日曜日は多くの訪問客が名残を惜しみました。 世界貿易センタービルは1970(昭和45)年の竣工。東京湾を眼下に望む立地が特徴でした。近年は周囲にオフィスビルやマンションが建ち並び、残念ながら展望ラウンジからは富士山と東京タワーを見渡す雄大な風景は見られなくなっていました。 世界貿易センタービル40階・展望ラウンジから見たかつての眺め。丹沢の山々と富士山が見える。2010年撮影(画像:広岡祐) 日々変化を続ける東京の街角。青空にそびえるビルディングは、さまざまな時代の顔を持っています。失われた名建築、そして今なお健在のビルディングから、昭和の風景を振り返ってみましょう。 明治期の「日本一」は、高さ52m明治期の「日本一」は、高さ52m 明治から大正にかけて、東京の、そして日本の高層建築ナンバー1の座を守っていたのは、絵はがきや錦絵でおなじみの浅草凌雲閣(りょううんかく)です。「浅草十二階」とも称された展望塔は、1890(明治23)年の竣工で高さは52mでした。 ひょうたん池の後方に建つ凌雲閣。竣工から33年後に震災で崩壊(画像:広岡祐) 文明開化のシンボルだった凌雲閣は関東大震災で失われ、京橋交差点の東南角にあった45.4mの第一相互館(1915年)がくり上がって日本一の高層建築となります。東京駅の設計で名高い辰野金吾の作品で、赤レンガの華やかな外観が特徴でした。 1919(大正8)年、市街地建築物法が制定され、建築物は100尺(31m)の高さ制限を受けることになりました。都市計画法の制定にともない、関東大震災の4年前に定められた法律です。 災害の防止とあわせて、建物周辺の交通混雑防止、採光や通風の確保による衛生状態の維持など、江戸の街並みを残していた東京の近代化を目指すさまざまな目的を持っていました。 100尺規制が生んだスカイライン「100尺規制」と通称されたこのルールは、わが国の都市景観を形成する基準となります。東京丸の内のオフィス街には、丸ビル(1923年)をはじめとする、30m前後の高さを持つ7~8階建てのビルディングが整然と建ち並ぶようになりました。 100尺規制で美しく高さがそろった丸の内のビル街。中央奥が旧丸ビル(画像:広岡祐) ちなみに第一相互館を抜いて日本一になるのが、1936(昭和11)年完成の新議事堂。現在も使われている国会議事堂(千代田区永田町)です。特例だったのでしょう、高さは216尺(約65.5m)に達しています。あのピラミッドのような大屋根が、日本一の高さを誇った時代があったのです。 地上147m 「超高層ビル」の誕生地上147m 「超高層ビル」の誕生 1961(昭和36)年に特定街区制度が制定され、さらに4年後に建築基準法が改正、31mの高さ制限は廃止されました。この特定街区制度を初めて運用して建設されたのが、日本初の超高層建築・霞が関三井ビルです。 地上36階・147mの建物には、耐震対策として柔構造理論を取り入れ、また鉄骨で重量を支え、外壁に荷重が掛からないカーテンウォール構造が採用されました。これらの工法は、のちの超高層ビル建設の手本となっていきます。鉄骨1万5000tと8000tの鉄筋を使用し、1968年4月に霞が関ビル(千代田区霞が関)は開業しました。 続いて東京で2番目の超高層ビルとして完成したのが、冒頭で紹介した世界貿易センタービル。ビル内にモノレールの高架駅とバスターミナルを持つ構造は、都心部のターミナルとしての役割も担っていました。ビルの中から空中に飛び出し、海の上の高架線を疾走して羽田空港へと向かうモノレールは、当時の子どもたちの憧れでした。 新しいビルに囲まれた現在の貿易センタービル。周囲の再開発が進む(画像:広岡祐) 40階建ての世界貿易センターが日本一の座についていたのは1年ほどで、以後1970年代前半まで、超高層ビルのレコード争いは、新宿駅前で繰り広げられることになります。 新宿副都心 1970年代の未来都市新宿副都心 1970年代の未来都市 1965(昭和40)年、玉川上水の水を70年あまりにわたって都内に送っていた淀橋浄水場が閉鎖。新宿副都心構想のもとで、浄水場の広大な濾過池の跡地は超高層ビル街として再開発されることになりました。 1971年、47階・178mの京王プラザホテル(新宿区西新宿2)が完成します。日本初の超高層ホテルでした。続いて3年後の1974年に完成した新宿住友ビル(同区西新宿2)は、角を削った正三角形のような形状から、三角ビルの愛称で親しまれました。 京王プラザホテル。超高層ホテルとしては、当時世界一だったニューヨークヒルトン(147m)をしのぐ規模を誇った(画像:広岡祐) 新宿住友ビルの特徴は、作業効率のアップで工期を大幅に短縮したこと。主要資材の納入が早く終わったために、材料費の値上がりを避けることができたといいます。前年10月の第1次オイルショックで、物価が急騰していたのです。1フロアを完成させるのに7.2日を要した霞が関ビルに対し、住友ビルは3.6日で工事を進めたそうです。 住友ビルがナンバー1の高さだったのは、わずかに半年でした。完成時、隣接して建設中だった新宿三井ビル(同区西新宿2)の高さは、すでに三角ビルを越えていました。 1974年9月、新宿三井ビルが竣工。石油ショックによる景気の後退のさなかでしたが、損保ジャパンビル(旧・安田生命ビル、1976年)、新宿野村ビル(1978年)、新宿センタービル(1979年)など、西新宿の超高層ビルの建設は続きます。 変貌するこの時期の新宿は、さまざまな映画やドラマの舞台となっています。人気刑事ドラマ『太陽にほえろ!』(日本テレビ系)では、冒頭のタイトルバックに副都心の高層ビルが映し出されますが、10数年の放送期間のあいだに、次々と増えていったビルを振り返ることができて興味深いです。 石油危機の波とサンシャイン60石油危機の波とサンシャイン60 東池袋の巣鴨拘置所(旧・巣鴨プリズン)跡地を再開発し、超高層ビルを核とする複合施設を形成しようとしたのが、池袋副都心開発・サンシャインシティ計画(豊島区東池袋)です。 新宿の再開発地区と比較して面積が狭かったためか、交通の混雑・ビル風による風害・日照権への影響など、周辺住民の反対運動が広がり、当初は270m・70階だった建設計画は大幅に縮小されました。 石油危機による建設資材の高騰も建設に悪影響をおよぼし、当初900億円ほどだった建設費が1800億円に膨れ上がりました。1978(昭和53)年4月の営業開始時には、テナントの入居は40%ほどだったといいます。 広大な巣鴨プリズンの跡地に建てられたサンシャイン60。高さ239m(画像:広岡祐) 苦戦する本業を尻目に、60階の展望台は開業直後から大人気でした。不況のおり、身近な行楽地として注目を集めたのかもしれません。オープンから1か月で入場者は30万人、エレベーター待ちの行列は、500m離れた池袋駅付近から続き話題になりました。 のちに水族館や博物館などの施設も完成し、安定した集客を誇る商業施設に発展したサンシャイン60は、新宿の東京都庁舎竣工まで、都内の超高層ビルでは最長の12年9か月間、高さトップの座を守っています。 1993(平成5)年の横浜ランドマークタワー(地上70階、296m)の完成で、日本一の高層ビルの座は東京を離れました。現在最も高いビルは大阪のあべのハルカス(2014年)で地上60階、高さは300mです。 令和に入って、東京都心部の大規模な再開発が進んでいます。2027(令和9)年完成予定の「東京駅前常盤橋プロジェクト」で誕生するTorch Tower(トーチタワー)は、地上63階・390mの超高層ビルだそうです。東京の空の風景がまた大きく変わりそうですね。
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