史上最も有名な「仇討ち」 300年以上語り継がれる「赤穂浪士事件」を描いた『徂徠豆腐』【連載】東京すたこら落語マップ(3)
落語と聞くと、なんとなく敷居が高いイメージがありませんか? いやいや、そんなことないんです。落語は笑えて、泣けて、感動できる庶民の文化。落語・伝統話芸ライターの櫻庭由紀子さんが江戸にまつわる話を毎回やさしく解説します。豆腐屋と学者の、サイドストーリー 年末といえば忠臣蔵。これは、赤穂浪士たちが吉良邸に討ち入りを行なったのが1702(元禄15)年12月14日(現在の暦では1月30日)だったことが理由です。この時期、忠臣蔵に所縁(ゆかり)のある地域では義士祭などが行われ、歌舞伎や文楽の「仮名手本忠臣蔵」のほか、浪曲、講談、落語など忠臣蔵の演目が目白押しです。 歌川国芳『誠忠義士聞書之内 討入本望之図』(画像:櫻庭由紀子) さて「忠臣蔵」といわれる一連のストーリーは、元禄の時代に実際に起きた「赤穂事件」を元に作られています。映画や芝居、講談などのほとんどのストーリーは「忠臣蔵」であり、落語も「仮名手本忠臣蔵」を題材にしたもので、赤穂事件を扱っているものはほとんどありません。 そんな中、史実・赤穂事件を扱っている数少ない噺が「徂徠豆腐(そらいどうふ)」です。 ※ ※ ※ 年の瀬も押し迫った頃、豆腐屋の七兵衛が芝増上寺門前の長屋を歩いていると、自分を呼ぶか細い声がする。豆腐2丁の注文を受けて、やっこに切って渡すとあっという間に平らげた。細かい金がないから払えないというのでツケにしていたが、3日めにようやくその学者は、金を持っていないことを白状する。 「学問で世の中を良くしたい」という学者に感心した七兵衛は、「出世払いだ」と夫婦でおからを届け始める。涙を流して礼を言うその学者は、長屋中から「おからの先生」と呼ばれるようになった。 そんな折、七兵衛は風邪を拗らせて寝込んでしまった。やっと起き上がれるようになり、おからの先生がひもじい思いをしているのではと心配して長屋に見に行くと、おからの先生は出て行ってしまっていた。 やがて時が経ち、七兵衛夫婦は学者のことをすっかり忘れてしまった。そんな元禄15年12月14日、赤穂浪士による吉良邸討ち入り。ついに本懐を遂げたと町中が赤穂浪士たちを讃える熱も冷めやらぬ中、豆腐屋の隣家が火事を出し、七兵衛夫婦は焼け出されてしまった。 魚藍坂にいる知り合いの薪屋に避難しているところへ、大工の政五郎が火事見舞いに来て、「さるお方から10両預かった」と七兵衛に渡し、その“さるお方”は元の場所へ新しく店を立ててくれると伝える。何のことかよくわからないまま年が明けた2月4日。赤穂浪士たちが全員切腹した。「あんな立派な赤穂浪士を死なせてしまうなんて」と人々の非難の声。 それから10日も経った頃、大工の政五郎がやってきた。芝増上寺の門前へ連れて行かれ、見ると焼けたはずの店が建っている。そこに立派なお武家様がやってきた。「豆腐屋さん」と呼ぶ声を聞いて「おからの先生だ」と驚いた七兵衛に、あの後増上寺住職の口利きもあり柳沢保明様に士官がかなったことを伝え、自身の名を「荻生徂徠」だと明かす。10両と新しい店は、徂徠が豆腐の代金とお礼にと用意したものだった。 しかし七兵衛は、赤穂浪士たちを切腹させたことに抗議する。これに徂徠は「いくら仇討ちといっても、徒党を組み討ち入ることは禁じられています。天下の法を犯した彼らは、本来ならば打ち首です。とはいえ、浪士たちは主君への忠義を果たした武士。武士の大小の小刀は己を斬るためのもの。浪士たちが武士のまま主君の元へ馳せ参じることができるよう、切腹という情けをかけたのです」と説明した。 「私は豆腐を無銭飲食して法を犯しましたが、七兵衛さんが“出世払い”という形で法を曲げずに情けをかけてくれました。学者として世にでることができたのは、七兵衛さんのおかげです。私も七兵衛さんの言葉を思い出し、法を曲げずに赤穂浪士たちに情けをかけたのです」 七兵衛は涙ながらに「赤穂浪士たちも立派だが、先生も立派になった」 「いいえ、私はただの豆腐好きの学者です」 「そんなことはない。先生はあっしらのために、自腹を切ってくだすった」 ※ ※ ※ 忠臣蔵が生まれた瞬間・赤穂浪士たちの切腹忠臣蔵が生まれた瞬間・赤穂浪士たちの切腹 荻生徂徠(おぎゅう・そらい)は、元禄時代の儒学者。芝増上寺門前に塾を開いていたといわれています(別の説もあり)。元禄9年に柳沢保明に召し抱えられ、赤穂事件で赤穂浪士の処分裁定論議に加わります。 世論は赤穂浪士たちの忠義を賛美しており、ここで打ち首の裁決をしてしまえば幕府は浅野内匠頭を切腹させた「片落ち」を責められてしまいます。困った徳川綱吉は徂徠に相談。徂徠の出した答えが、義士切腹論「法を曲げずに情けをかける」でした。 赤穂浪士たちの切腹は、人々に大きな衝撃をもって伝えられたと言います。赤穂浪士たちの死は赤穂事件の終結であり、忠臣蔵の物語のスタートでした。 ●増上寺 荻生徂徠が住んでいたと言われる長屋があったのは、おなじみ芝の増上寺の門前。現在は公園に囲まれている増上寺は、徳川家の菩提寺として繁栄しました。「徂徠豆腐」のほかに「浜野矩随」「首提灯」、そして有名な「芝浜」にも登場しています。 現在の増上寺。奥には東京タワーが見える(画像:櫻庭由紀子)●魚藍坂下・長松寺 白金高輪駅を降り、桜田通りを行くと魚藍坂下の交差点。焼け出された豆腐屋七兵衛夫婦が避難した薪屋があったのはこの辺りでしょうか。魚藍坂下の交差点を超えると、荻生徂徠の墓がある長松寺があります。 ●泉岳寺 魚藍坂を進み、伊皿子坂に入りさらに進むと泉岳寺。赤穂藩主・浅野内匠頭の菩提寺であり、赤穂義士たちの墓があることで有名です。 赤穂浪士たちは、元禄16年12月14日吉良邸討ち入りにて本懐を遂げた後、永代橋経由で泉岳寺へ向かいます。主君の墓前に吉良の首を供えるためです。15日未明に泉岳寺に到着した浪士たちを、多くの町民たちが讃えたといいます。奇しくもこの日は、浅野内匠頭の月命日でした。 泉岳寺境内にある「赤穂義士記念館」には貴重な資料保存されています。吉良上野介の首を洗ったという「首洗井戸」の存在は、赤穂事件が紛うことなき史実であると物語っているようです。 ●細川下屋敷跡 泉岳寺の隣は、細川下屋敷跡。大石内蔵助ら17人の赤穂義士切腹の地です。高松中学校の脇には旧細川邸のシイ。幹囲7.4m、高さ17mのうねる樹形の巨木は、歴史の清濁を飲み込んできたかのような姿で現在も佇みます。落語「井戸の茶碗」でくずやから仏像を買い取る高木作左衛門が住んでいたのもここです。 ちなみに、赤穂藩江戸屋敷があった場所は築地の聖路加病院一帯です。敷地には「都旧跡 浅野内匠頭神邸跡」の石碑が建てられています。 永遠のナゾ……「吉良上野介は名君だった」説も永遠のナゾ……「吉良上野介は名君だった」説も「この前の恨み、覚えたるか!」と小刀を抜き斬りかかる浅野内匠頭。吉良上野介の額が斬られ飛び散る鮮血、梶川与惣兵衛がなおも刀を振り回そうとする内匠頭を後ろから羽交い絞めにし「殿中でござる!刀をお納めくだされ」とするも、「止めてくれるな梶川殿、武士の情けじゃ討たせてくりゃれ」。 誰もが知る仮名手本忠臣蔵・大序のシーン。忠臣蔵が現在に至るまで長らく伝えられてきたのは、忠義を全うした赤穂浪士たちが悲劇のヒーローとして人々の心に刻み込まれた証明でしょう。 狩野秀源貞信『仮名手本忠臣蔵十二段目』(画像:櫻庭由紀子) しかし、史実の赤穂事件は謎が多く、現在まで伝わっている忠臣蔵はかなり脚色されたものです。 例えば、内匠頭が吉良上野介に切りかかった理由について、忠臣蔵では上野介によるモラハラ、パワハラとされていますが、実は内匠頭の精神的錯乱であり持病であったとの説が有力です。 実際、上野介は領地である三河国幡豆郡の治水に力を入れ、農地をまわりながら人々に声をかけた名君として伝えられています。 忠孝のはざまで自害した萱野三平にいたっては、その決定的な理由が弱かったためか、別の人物のエピソードが付け加えられ、もはや名前と自害くらいしか使われていない状態です。 事件から300余年経った現在では、吉良上野介の評価も忠義のあり方も変化しています。 事件の発端となった「江戸城・松の廊下」は、皇居の中にひっそりと跡地として残るのみ。討ち入りの現場であった本所松坂町の吉良邸は、本所松坂町公園として両国の人々に守られています。 赤穂事件は在りし日の武士の姿とともに、これからも様々な解釈で語られていくのでしょう。
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