かつて水車タウンだった「目黒区」から水車が消えてしまった、マンガみたいな理由
都内でもおしゃれなイメージで知られる目黒区ですが、かつては多くの水車がある地域だったことをご存じでしょうか。その歴史について、フリーライターの県庁坂のぼるさんが解説します。大橋ジャンクションすぐ近くの説明版 首都高速道路3号渋谷線と中央環状線を結ぶ大橋ジャンクションのすぐ近く、目黒区大橋1丁目の目黒川沿いに「水車跡」という説明板があります。説明版には次ような文章が書かれています。 「この地域は、近くを大山道(現在の玉川通り)が通り、物資の輸送に便利であり、また、三田用水、目黒川の水力にも恵まれていたので、江戸時代から明治にかけて水車が多く作られました。中でもこの近くにあった大橋の加藤水車は有名でした」 今では散歩道のあるおしゃれな川といったイメージの目黒川ですが、かつてはどぶ川。そんな目黒川に水車があったとは到底想像できません。 水車が置かれた時期は明確ではなく、『月刊めぐろ』に昭和54年から60年まで連載された、目黒区の歴史を知るための必須資料「歴史を訪ねて」でも触れられていません。 水のエネルギーを使って機械を回転させる水車は古来、世界の多くの地域で使われてきました。日本で使われ始めたのは平安時代からと言われていますが、本格的な普及が進んだのは江戸時代に入ってから。白米を食べる習慣が広がり、精米のために水車が使われるようになったためです。 また、農業生産力が向上して商品作物が作られるようになると、水車で粉をひくなど、その用途が広がりました。 水車増加の背景にあった農作物の加工販売 目黒区域で水車が多く設置されたのは、三田用水と目黒川でした。 水車のイメージ(画像:写真AC) 三田用水の元となったのは、1664(寛文4)年に完成した三田上水です。現在の世田谷区北沢で玉川上水から分岐し、目黒区三田を通って白金猿町(現・高輪台)へと流れていました。後にかんがい水路になり、世田谷・渋谷・目黒・品川周辺にある14の村が管理しました。 水車の数は、農作物を加工販売して利益を得る人が増えるとともに増加します。しかし無秩序に設置された結果、流水量を勝手に調節する人が出始め、水があふれたり、よどんだりする問題が発生しました。 そして1873(明治6)年、用水を管理する人たちが水車の新設を認めないことを決めます。しかしそれでも水車の数は増えたと言いますから、農作物の加工販売は相当もうかる商売だったのでしょう。 精米からガラス磨きまで使われた水車精米からガラス磨きまで使われた水車 水車は、水車跡の説明板がある目黒川沿いにも多く設置されました。目黒川は三田用水と違って流水も豊富です。 しかも市街地に近いため、加工品をすぐに出荷できるというメリットがありました。この頃の水車は直径4尺(約120cm)で、きねは大きいもので数十本も備えていたそうです。 こうして目黒区は明治期、水車を使った工業化が進展。精米や製粉から、たばこ製造やガラス磨きまで水車が使われるようになったのです。 目黒区内にあった水車場の分布図(画像:目黒区) 1895(明治28)年の三田用水普通水利組合の歳入予算を見ると、かんがい用水の使用料は全体の3割程度。残りのうち5割は雑収入となっています。普通水利組合とはかんがい・排水のための諸施設の維持管理を行う組合で、雑収入とは火薬製造所・日本麦酒などの工場から得られる使用料を指します。 このことから、三田用水や目黒川沿いはかなり早い段階で近代的な工業化が進んでいたことがわかります。もっとも、目黒区域でもほかの地域は農村部が広がっており、昔ながらの水車を用いた精米や製粉が行われていたようです。 結局、目黒区区域の水車は電力による精米機が現れたことや、目黒川の改修工事によって姿を消していきました。 姿を消したもうひとつの理由 分布図の最も下に記載された呑川(のみかわ)では、かなり後の時代まで水車が使われていたようですが、ある驚きの一件で水車がなくなってしまったと言います。 資料『目黒の近代史を古老にきく』(目黒区守屋教育会館、1982年)によると、衾村(ふすまむら、現在の環七通りの南側全域)で代々名主をつとめた岡田家の岡田衛さんは、こんなことを語っています。 当時の野見川(呑川)には3か所の水車があり、そのなかに泥堰と呼ばれるものがありました。これを緑が丘(目黒区)のKさんが使っているときに竜巻が来て、水車小は吹き飛ばされてしまったそうです。Kさんは竹につかまってなんとか助かりましたが、田んぼには水車の2本の芯棒が突き刺さっているだけになり、それが原因となって水車を止めたのこと。 竜巻のイメージ(画像:写真AC) 今はおしゃれなイメージのある目黒区ですが、そのようなまるで漫画のような災害があったとは驚くばかりです。
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