かつて東京の「胃袋」を支えた行商人たちがいた 消えゆく彼らの記憶と痕跡を想う
鉄道の登場で広がった行商人の行動範囲 日々、私たちが口にしている食べ物は、当然ながら誰かが作り、運んでいます。東京は多くの食料を千葉県や埼玉県などの隣接県に依存しているため、それらの農家なしで生活は成り立ちません。 千葉県や埼玉県、茨城県の農村部が生産する野菜が東京に供給されるようになったのは、大正に入った頃から。その一因は、各地に鉄道が開業したことです。まだ鉄道網が発達していなかった明治期は、東京の都心部にも田畑や家畜を飼育する牧草地が広がっていました。 しかし、東京は次第に都市化し、次々と耕作地や牧草地は消失。当然ながら、東京都心部から農家の数は減ったわけですが、その一方で東京の人口は右肩上がりに増加していきます。 東京で暮らす人々の胃袋は、主に千葉県・埼玉県・茨城県の農家が満たすことになります。これらの地域の農業従事者が、列車に乗って採れたての野菜や果物、鶏卵を東京まで販売しにきたのです。 京成電鉄の日常風景でもあった行商人たちの“通勤”風景(画像:小川裕夫) それまでも、野菜などを売り歩く行商はありました。明治期の行商がそれまでの行商と大きく異なるのは、鉄道という文明の利器が登場したことで行商人の行動範囲が一気に広がったことです。 特に、東京と千葉・茨城方面を結ぶ常磐線や総武線、成田線、私鉄では京成線が開業したことは農家の販路を大きく切り開くことになりました。 野菜行商で得られる売り上げは、農家にとっても貴重な現金収入です。そうしたことを理由に、農村では行商が盛んになりました。また、行商が大きく税収を増やすことから、地元の自治体も行商を奨励しました。 大正末頃には、多くの行商人が列車に乗って東京を目指すようになります。そのため、早朝の列車は行商人で混雑するようになったのです。 常磐線の電化にともない、規制された行商人常磐線の電化にともない、規制された行商人 時代が昭和に移ると、東京では列車で通勤というライフスタイルが生まれます。通勤のサラリーマンと野菜を積んだ行商人が混乗することでトラブルも発生するようになり、鉄道当局は無用のトラブルを回避するために行商人の扱いに苦慮することになりました。 とはいえ当時の行商人は人数も多く、また長距離客のために鉄道当局にとって上客です。通勤客ばかりに便宜を図れば、鉄道当局の経済的な損失は大きなものが予想されます。そうした事情もあり、鉄道当局は行商人を粗雑に扱うことはできませんでした。 しかし、1935(昭和10)年に総武線、1936年に常磐線の一部区間が電化されると行商人を取り巻く環境が一変。電化によって列車の運行本数は一気に増え、それに伴い通勤需要が急速に拡大したのです。 こうした状況の変化から、鉄道当局は行商人の規制を強めていきます。鉄道当局は行商人が持ち込める荷物の総量や時間帯を指定し、混雑の緩和を図ります。また、行商人は東京都心部へ向かうために山手線などに乗り換えるのが一般的でしたが、乗り換えの際は上野駅を使うことを義務づけました。 かつて多くの行商人が利用した上野駅の現在の様子(画像:写真AC) 戦火が激しくなった1940年前後になると、政府は段階的に食料を配給制へと切り替えていきます。そのため、自由に野菜などを売り歩く行商も厳しく取り締まられるようになりました。 そして、千葉県は1943年に行商を全面的に禁止します。これにより組合などによる組織的な行商は姿を消しましたが、風呂敷に包んで野菜を運ぶという脱法的な方法で極秘に行商は続けられていたようです。 戦後、政府によって青果物の流通は統制されました。そのため、行商は公に再開できません。行商人たちは戦前期と同様に極秘に行商を続けました。 1949(昭和24)年に統制が解除されると、総武線や常磐線、京成線は行商人で溢れます。行商人が一回で運ぶ荷物の総量は約60kgにも及びます。人によっては、1日に2往復・3往復する猛者もいました。 行商専用列車の運行を続けた京成行商専用列車の運行を続けた京成 長年にわたって行商を続けているから慣れているとはいえ、60kgを常に背負うことは身体に多大な負荷をもたらします。 そうした身体への負担を少しでも軽減するべく、行商人が列車を待つ間は「行商台」と呼ばれる台の上にカゴを載せて体を休めました。行商人が多く利用していた沿線の駅では、そうした行商台が当たり前のように設置されていました。 このほど、成田線の湖北駅(千葉県我孫子市)は駅改良工事に伴い、使用されなくなっていた行商台の撤去を決定。湖北駅に設置された行商台は、JRの所有物ではありません。駅は所有者不明のため勝手に処分できず、JRは行商台の持ち主を探す貼り紙を掲出。貼り紙には、2019年12月いっぱいで撤去することが明記されています。 2019年12月いっぱいで行商台を撤去する旨が書かれた貼り紙(画像:小川裕夫) 成田線・常磐線ルートを走る行商指定列車は、最盛期の1964(昭和38)年に1日3本が運行されていました。湖北駅ホームの行商台は、行商人を支え、そして東京の胃袋を満たす役割を果たした遺産ともいえます。行商台は日本経済を裏で支えた縁の下の力持ちでもあるのです。 高度経済成長後には、食料の流通体制が整います。道路が整備され、配送用のトラックも十分な数が揃いました。物流インフラが整備されたこともあり、非効率な行商人は減少。国鉄は早々に行商専用列車の運行を止めています。一方、京成は行商専用列車の運行を続けました。 「忘れてはならない歴史」がある「忘れてはならない歴史」がある 京成では行商専用列車を「嵩高(かさだか)荷物専用列車」と呼び、最盛期には1日4往復が運転されていました。 当初、京成の嵩高荷物専用列車は京成佐倉駅発のダイヤが組まれていましたが、1968(昭和43)年には運転区間が京成成田駅発に拡大。また、京成は京成高砂駅で行商専用列車を分割し、押上駅方面と京成上野駅方面の2ルートを運行して行商人の便宜を図っていました。 京成成田駅のホームにかつて掲出されていた行商専用車への誤乗防止を呼びかける看板 (画像:小川裕夫) 京成は1983(昭和58)年に専用列車の運行をやめましたが、その後も6両編成のうち一両を行商人だけが乗車できる専用車として、細々と運行を継続しました。専用車の運行は2013年まで続けられています。 専用列車や専用車がなくなった後も、JRでも京成でも列車に乗って馴染みの家に野菜を売り歩く行商人は活躍していました。行商人が多かった成田線・常磐線では、早朝の電車で行商人が一般乗客と混乗する光景が見られました。今日までホームに行商台が残っていたのは、そのためです。 行商列車の運行がなくなって久しく、ほとんどの行商組合も解散しています。ネットで買い物をし、自宅まで届けてもらうのが当たり前になった現在、行商というビジネススタイルが消えるのは自然な成り行きなのかもしれません。 しかし、行商が私たちの生活を支えてきたことは忘れてはならない歴史です。
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