クマを縛って持ってきた人も! 東京下町の台所を支えた「行商人」を振り返る
かつて行商人が多かった理由 東京の街で近年よく見かけるようになったものといえば、フードデリバリーサービスです。1回の外出で複数回見かけることも、もはや珍しくありません。そんな東京にはかつて、配達だけでなく、さまざまな商品を持ち歩いて販売する「行商人」がたくさんいました。 1977(昭和52)年に連載をスタートし、2013年に完結した藤子不二雄の名作『まんが道』では、主人公の満賀道雄(まが みちお)と才野茂(さいの しげる)が上京した両国の風景として、早朝にあさりやしじみが自転車で売られる様子が描かれています。 豆腐も店で買うより、ラッパを吹きながら自転車やリヤカーに積んだ豆腐を売る「引き売り」から買うことの方のが多かったのです。 こうした行商人が多かった理由は、家庭で食材を保存することが難しかったためです。 現在では冷蔵庫技術の向上で、食材は長期保存できます。また、その容量も巨大です。しかしこれは平成に入ってからしばらくのことで、今の40代より上の世代の場合、大半の家庭用冷蔵庫はドアがふたつ。下の段が冷蔵で上の段が冷凍という、ちょうどひとり暮らしの学生の家にあるようなものでした。 そうした事情から、買い物は毎日「必要な物を必要な量だけ」でした。現在では冷蔵庫にある食材から献立を考えるのが一般的ですが、当時はスーパーマーケットや商店街を歩きながら考えていたのです。それゆえ、行商人がその日使うぶんだけを家の近所まで売りに来るというスタイルは、理にかなっていたのでした。 東京の下町では昭和まで残っていた東京の下町では昭和まで残っていた こうした行商人の始まりは明らかではありません。 現在も残る石焼き芋の行商(画像:写真AC) 東京に限定すれば、盛んになったのは江戸時代になってから。当時、振売(ふりうり)・棒手振(ぼてふり)と呼ばれた行商人は、魚から野菜までありとあらゆる物を売っていました。 天保(てんぽう)年間に刊行された『江戸名所図会』を見てみると、あちこちに行商人の姿が描かれています。 この商売は鑑札(かんさつ、行政庁が交付する許可証)を得れば、誰でも始めることができました。幕府では1648(慶安元)年に法令を決め、江戸市中の振売商人に振売札と呼ばれる鑑札を発行し、営業を許可しました。 許可を得た商人は年1~2両を納めることになっていましたが、老人・子ども・障害者は免除されていました。このことから、許可制は社会的弱者の生活を維持させるためだったと考えられます。 ただ、江戸時代を通じて何度も規制が行われていることから、鑑札を得ずに参入する人も多かったようです。開業資金がさほどかからないこともあり、職にあぶれた庶民が手っ取り早く収入を得る手段という側面もあったのでしょう。 扱われる商材は次第に多くなったようで、江戸後期の風俗史家・喜田川守貞の著作『守貞謾稿(もりさだまんこう)』によると、食品のみならず、ちょうちんや金魚、鈴虫を売り歩く者もいたといいます。 こうした行商人の最盛期は江戸時代でしたが、東京の下町では大正から昭和にかけても、かなりの数が残っていました。 街なかに飛び交うさまざまな声 こうした行商人は、まず自分の存在をアピールしなければなりません。そのため、下町では朝からさまざまな行商人の声がします。 あさりやしじみ売りは「あさり~しじみ~」と売り歩き、それが通り過ぎたかと思えば、納豆屋が「なっと~、なっと~」とやってきます。さらに、ラッパを吹く豆腐屋もやってくるのです。 新鮮な豆腐のイメージ(画像:写真AC) 朝のにぎわいが終わると、必ずやってくるのがあめ屋でした。大正の頃だと頭の上にたらいを載せて、太鼓をたたきながらやってくるのが王道スタイル。この商売は行う人も多かったのか、チャルメラを吹いたり、歌を歌ったり、たらいに小旗をつけて目立とうとしたりしていたといいます。 大八車でクマを載せてやってきた行商人も大八車でクマを載せてやってきた行商人も そして昼になるとやってくるのが、どんどん焼き屋です。どんどん焼きとは、大正の頃から東京で流行したお好み焼きの原型のようなものです。かなりの日常食だったようで作家・池波正太郎の著作にも記述されています。その後、くずもち屋が来たかと思えば、パンに蜜をつけた物を売る人もやってきます。 夕方になると再び豆腐屋などがやってくるわけですが、それで終わりではありません。日が暮れると今度は、夜食を求める客を目当てにお汁粉屋が「お汁粉や、お汁粉や」と夜の街を回ります。ほかにも、夜食の定番である夜鳴きそば屋もやってきたのです。 江東区が収集した『江東ふるさと文庫6 古老が語る 江東区のよもやま話』(江東区、1987年)には、こうした行商人を見た人たちの思い出が多数記録されています。 『江東ふるさと文庫6 古老が語る 江東区のよもやま話』(画像:江東区) この本によれば、行商人だけでなく、夏になるとすいか屋や花火の辻売り(道ばたに商品を並べたり、小さな店を張ったりして商売すること)もやってきたといいます。しかも、花火の辻売りに誰かが投げ捨てたたばこの火が引火して大騒動になったこともあったそうです。 また水道の整備が不十分だった昭和初期の江東区では、水が売り物になっていたといいます。江戸川の方面から船で運んできた水をてんびん棒で担いで売り歩くのです。また、これとは別にお湯屋もありました。夏は行水で済ます人たちを目当てに、荷車にお湯を積んで売り歩くのです。 『江東ふるさと文庫6 古老が語る 江東区のよもやま話』には、これ以外にもロシア人が生地を売りに来た話や、熊胆(ゆうたん、クマ由来の動物性の生薬)売りが大八車に針金で縛ったクマを載せてやってきたという記述もあります。 かつての東京では、多くの人が生活のためにさまざまな商売を思いつき、実行していました。現代人もこのハングリー精神を見習いたいものです。
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