悲しい人を救えるのは悲しい人だけ? 悲しい体験から得られる本当の「優しさ」とは
哲学の動機は「深い人生の悲哀」 やりきれない思いや悲しさ、哀れな気持ちを抱えたとき、お酒を飲んだり、衝動買いをしたりして発散する人もいるでしょう。でも、やりきれない。そんなときこそ、哲学の世界に足を踏み入れてみませんか。 日本人初の哲学者といわれる、西田幾多郎(1870~1945年)。実は彼も哲学への動機を「深い人生の悲哀」と語っています。特に論理的に物事を考えることが好きな人、言葉に力をもらったことがある人は、哲学に救われることも多いでしょう。たったひとつの哲学が、視点を180度変えてくれることもあるのです。 やりきれない悲しさのイメージ(画像:写真AC) 日本人初の哲学者ともいわれる西田幾多郎。西田が物思いにふけりながら散策したことが由来とされる京都の「哲学の道」を訪れたことのある人もいるのではないでしょうか。そんな西田ですが、「哲学の動機は驚きではなくして、深い人生の悲哀でなければならない」といいます。学問や研究というと好奇心や驚きを動機とするイメージが強いですが、西田にとっては「悲哀」が動機でした。 世界的にも有名な西田ですが、その人生は幸薄いともいわれています。75歳で亡くなるまで5人の子どもを亡くし、最初の妻も49歳で亡くしています。他にも小さな頃に生家の没落や、今でいうリストラ、家族の病気などに悩まされる人生でした。 「悲しみ」をあらゆる角度から解釈する「悲しみ」をあらゆる角度から解釈する 哲学を取り入れると、どのように悲しみが癒えるのでしょうか。悲しい思いや辛い思いをしたとき、その感情を打ち消すのは、いくら努力しても難しいでしょう。ただ悲しさに耐えるしかなく、非常に苦しいものです。 しかし人間には、感情とともに理性があります。理性が優位のときは感情が抑えられ、またその逆も然り。そして理性が感情を助けてくれることもあるのです。 真宗大谷派僧侶で、仏教思想家・金子大栄(1881~1976年)の言葉をご紹介しましょう。 「悲しみは悲しみを知る悲しみに救われ、涙は涙にそそがれる涙にたすけらる」(『歎異抄領解(りょうげ)』53ページ) 「歎異抄(たんにしょう)」とは、浄土真宗の宗祖である親鸞の教えを記した仏教書のことです。はじめに出てくる「悲しみ」や「涙」は、自分自身のものととれるでしょう。 金子大栄が属した真宗大谷派の本山・京都市下京区の東本願寺(画像:写真AC) 次に出てくる「悲しみを知る悲しみ」や「涙にそそがれる涙」は、『歎異抄』を訳し解釈した金子の言葉ですから、浄土真宗が本尊とする阿弥陀如来ととれます。ほかの捉え方をするとすれば、自分の周りにいる家族や友人にも当てはめられるでしょう。 また、「自分の悲しみは、同じ悲しみを知る人の悲しみによって救われる」「自分の涙は、同じ涙を流した人の涙に助けられる」ともとれます。自分と同じ悲しみを経験した人の悲しみに救われることは、あるものです。 逆にいま自分が感じている悲しみは、今後同じ経験をするほかの誰かの悲しみをも救うことができるともいえます。同じように辛い思いを経験をした人には、自然と優しくなれるのが人間というものですよね。 そう考えると「悲しみの体験」は自分に起こったただひとつの事実であるだけでなく、過去から今へ、今から未来へと優しさで繋がっていくものなのかもしれません。このように哲学は、さまざまな解釈をすることができるのです。事実はひとつですが、解釈はいかようにも可能です。 人生は前向きにしか生きられない人生は前向きにしか生きられない 悲しみを抱える人におすすめしたいもうひとつの言葉が、デンマークの哲学者セーレン・オービエ・キルケゴール(1813~1855年)の「人生は後ろ向きにしか理解できないが、前向きにしか生きられない」という言葉です。 京都市左京区にある「哲学の道」(画像:写真AC) 起こった出来事に対して、私たちは後ろ向きにしか理解することができません。激しく後悔することや、もう何も出来ないと絶望することもあるでしょう。ただし、解釈自体は先ほど確認したように変えることはできます。 一方で生きていくためには、前を向いて歩いていくしかありません。そう考えると、どんなに後悔しても、もう立ち上がれないと思っても、不思議と少し気が楽になるものです。もしかしたら、自分が思っている以上にできることはあるかもしれません。 哲学の面白さを、少し実感して頂けることはできましたか。ひとつ考え、ひとつの言葉で、悲しみが癒えたり、パッと道が開けることがあるものです。
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