日本橋の外れにひっそり 都内で唯一ドクロを祭る神社「高尾稲荷神社」とは
日本橋の南西、隅田川が流れる日本橋箱崎町にある高尾稲荷神社。いったいどのようなっものを祭っている神社なのでしょうか。都市探検家の黒沢永紀さんが解説します。御神体は高尾大夫の髑髏 国内に10万余ともいわれる神社。その多くは御神体として、山や岩、御神木などの神聖な自然物や3種の神器を祭っています。また、菅原道真や徳川家康など、実在の人物が御神体となっていることも多いでしょう。 そんな中、頭蓋骨を祭るというとても珍しい神社が日本橋にあります。「高尾稲荷神社」(中央区日本橋箱崎町)。今回は国内でもまれにみる髑髏(どくろ)神社の話です。 日本橋箱崎町にある、鳥居と神殿だけの小さな高尾稲荷神社(画像:黒沢永紀) 日本橋といっても南西の外れ、隣接して隅田川が流れる日本橋箱崎町に、その神社はあります。 狭い境内で、宮司さんが常駐する規模のものではありません。小さな社と鳥居、それに手水鉢(ちょうずばち)だけの、こぢんまりとした神社です。 この神社に、かつて江戸時代、吉原遊郭でその名をはせた遊女、2代目高尾大夫の髑髏が御神体として祭られているといいます。 併設された解説板によると、操を立てた意中の人がいたため、身請けされた仙台藩主・伊達綱宗候を拒み続けた結果、隅田川の船上で縛り上げられ惨殺。その亡きがらが流れ着き、近隣の僧侶が供養したことに由来する、とあります。 下野国から江戸の妓楼へ下野国から江戸の妓楼へ そもそも、高尾大夫とは、どういう人物だったのでしょうか。 下野国(しもつけのくに)の塩原村(現在の塩原温泉付近)で生まれた高尾大夫は、その名を「みよ」といい、生家は百姓だったといいます。幼い頃に両親を亡くし、親戚筋に引き取られてからは、朝から晩まで葉っぱの跡が付いた川底の石を「葉っぱ石」といって売るなどして、食いぶちを稼いでいました。 高尾太夫の髑髏を祭ってるとされる神殿(画像:黒沢永紀) ある日、温泉宿へ売りに行くと、羽振りの良さそうな夫婦が滞在していたので、葉っぱ石を買ってもらおうとお願いしました。この夫婦こそ、後にみよを高尾太夫に育てる、妓楼(ぎろう)「三浦屋」の四郎左衛門とその妻のお秀だったのです。 四郎左衛門はみよの器量の良さにほれ込み、孤児の事情を聞いて、養女の話を持ちかけます。親戚筋もふたつ返事で承諾し、みよは四郎左衛門夫婦とともに江戸へ行くことになりました。 吉原がまだ日本橋の人形町かいわいにあった時代、三浦屋はその中でも最も名の知れた大妓楼でした。みよは、三浦屋で芸事から学問までさまざまな教育を受けることになりますが、これは、みよを遊女にするためではなく、三浦屋を切り盛りするおかみになってもらうためだったといわれています。 いきなり太夫としてデビューいきなり太夫としてデビュー 時は1657(明暦3)年、江戸市中に広がった大火は瞬く間に吉原遊郭も焼き尽くし、さらに火事の後、日本橋での再建が認められず、吉原は浅草北方の湿地帯への移転を余儀なくされました。これが、その後300年続く新吉原の始まりです。 四郎左衛門は方々から借金をしてようやく妓楼を再建し、新天地での営業を始めるものの、大火の後の江戸は疲弊しきって妓楼遊びをする者も少なく、商売は右肩下がり、借金取りも頻繁に来るようになったそうです。 付け屋根のてっぺんにしつらえられた簪(かんざし)の飾り(画像:黒沢永紀) そんな様子を見たみよは、これまでの恩返しにと、遊女になることを申し出ます。当初、四郎左衛門は反対しますが、みよの熱意にほだされ、遊女になることを承諾しました。 寛永の頃に引退して尼となった初代高尾の名を継いで2代目高尾とし、さらに才色兼備だったことから、いきなり太夫(たゆう)としてデビューさせることにしました。 一般的に遊女は、禿(かむろ)や新造(しんぞう)の見習いを経てようやくひとり前になります。その後も、多くは端女郎で勤めを終え、遊女の最高格である太夫になれるのはほんの一握りでした。 しかし、高尾は見事にその大役を果たして、一躍吉原にその名をとどろかせます。万治元年の花魁(おいらん)道中では、絵から抜け出たほどに美しいと評され、その名声は後に、島原の吉野太夫、新町の夕霧太夫とともに、三名妓(めいぎ)といわれるほどでした。 三浦屋は瞬く間に経営を立て直し、さらに高尾のおかげで大繁盛。高尾が相手にした大名の中でも、特に仙台藩主の伊達綱宗候は高尾をかわいがり、たびたび身請けを申し出ました。しかし、高尾には心に秘めた相手がいたことから、かたくなに拒み続けたといわれています。 二代目高尾大夫のストーリーは諸説あり二代目高尾大夫のストーリーは諸説あり 人気絶頂の高尾でしたが、毎夜の仕事は18歳の体にこたえ、ある日肺結核の診断を受けます。四郎左衛門は、浅草山谷にある三浦屋の別荘へ移して療養させますが、時すでに遅し。別荘に移ってから3か月ほどで、高尾は帰らぬ人となりました。享年19歳。 深い悲しみに包まれた四郎左衛門は、浅草山谷の「春慶院」として知られる月光山覚道寺で盛大な葬式をあげ、墓も建立しました。さらに一周忌も執り行い、同じ浄土宗の弘願山西方寺に供養塚も寄進したほどでした。 西方寺にある、高尾の一周忌に四郎左衛門が祭ったとされる供養塚(画像:黒沢永紀) 遊女は自分の墓を建てることができず、多くは近隣の投げ込み寺といわれた寺で、遊女たちの集合墓に埋葬されるのが通例でした。四郎左衛門が高尾大夫をどれほどかわいがっていたかがうかがえるエピソードだと思います。 二代目高尾大夫は、その短い遊女の時代が万治年間だったことから「万治高尾」といわれます。また伊達綱宗の話にちなんで「仙台高尾」ともよばれ、現在も人々に語り継がれています。 伝説から生まれた神社だった伝説から生まれた神社だった これが、一応史実とされているストーリーのひとつですが、華々しくもはかなく散った高尾は、その後、多くの物語となり、さらに口伝やうわさによって時とともに脚色されていったことも多く、現時点でどこまでか史実なのか、不明な点も多いといいます。 そして、うわさの中でも広く知られるのが、身請けの申し出に応えない高尾に対してしびれを切らした伊達綱宗候が、隅田川の船上で高尾を縛り上げて惨殺したというもの。 高尾稲荷神社はこのうわさを基にした、いわば架空の御神体を祭った神社でした。あるいは、実際に流れ着いた遺体を弔ったのかもしませんが、少なくともそれは二代目高尾太夫ではありません。世にうわさがひとり歩きし、その伝説が基となって神格化れることは多々あります。この髑髏神社もご多分にもれず、伝説から生まれた神社と言えるでしょう。 覚道寺にある、高尾のものとされる墓(画像:黒沢永紀) それは同時に、二代目高尾大夫が、神格化されるほど江戸の世に知れ渡り、同時に人気があったことを物語るものだと思います。 なお、高尾稲荷神社は常時参拝可能、覚道寺と西方寺も、開門時間中なら墓参りが可能です。全盛期はほんの1年しかなかった短命の高尾太夫。華々しく散った江戸の太夫に思いをはせながら参拝してみるのはいかがでしょうか。
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