本当? おしゃれスポット「目黒」に今でも専業農家が残っていた
2015年時点で区内に農家が8戸も かつて目黒区域の主要な産業は農業でしたが、都市化によってほとんどその姿を消しました。もう完全に消滅したのか――と思いきや、実はわずかながらも農家は存在しています。 専業農家のイメージ(画像:写真AC) 2020年3月に発表された『目黒区産業振興ビジョン』にると、目黒区の農家の数は1995(平成7)年時点で25戸、農地面積は6.1haでしたが、2015年時点では12戸、2.7haまで減少しています。とは言っても、2.7ha(約165m×165m)の農地が目黒区に存在しているのは少々驚きです。 12戸の内訳は ・農家:8戸(販売農家:7戸、自給的農家:1戸) ・林業経営者:4戸 で、販売農家7戸のうち3戸は専業農家。こんな都市部でまだ専業農家が存在するのです。 隣接する品川区と同様に、目黒区で取れた農産物は江戸時代に、江戸へ数多く出荷されていました。目黒区は明治中期以降に野菜の栽培が盛んになり、大正から昭和にかけて大いににぎわいました。 ただ、都市化の波は農地を次第に減らしていきました。『目黒の近代史を古老にきく2』(目黒区守屋教育会館、1985年)では、目黒区碑文谷1丁目の田向公園にある耕地整理組合の記念碑について触れたページがあります。 ここで当時を知る古老は、次のように語っています。 「初めは農地を有効的に利用しようというねらいで始めたのですが、震災で沢山(たくさん)の人を受け入れることになったため、区画整理に移行せざるをなくなってしまったのです。よくいえば先見の明(めい)があったのです」 ようは、耕地整理がいつの間にか区画整理になってしまったということです。おそらくは、地元の人も驚くようなスピードで都市化は進んだのでしょう。 肥料研究に大きな貢献をしたケルネル肥料研究に大きな貢献をしたケルネル そんな目黒区ですが、目黒区には日本の農業の歴史に欠かせない水田が残っています。井の頭線の駒場東大前駅近くの駒場野公園(目黒区駒場)にある「ケルネル田圃(たんぼ)」です。この水田は、駒場農学校で教壇に立っていたオスカル・ケルネルの試験田として、また日本で初めての水田試験地として知られています。 目黒区駒場にある「ケルネル田圃」(画像:(C)Google) オスカル・ケルネルは1851年、プロイセン(のちドイツ帝国)に生まれました。化学を学んだケルネルは、農芸化学の専門家として精力的に活動。そうした活動が知られて明治政府に駒場農学校(現・東京大学農学部、東京農工大学農学部、筑波大学生命環境学群生物資源学類)の農芸化学主任として招かれます。 ケルネルは駒場農学校で11年にわたり教壇に立ち続けました。駒場農学校は、現在の東大教養学部(目黒区駒場)などのキャンパスよりも広く、駒場公園と駒場野公園も含んだ広大な敷地を持っていました。そんな広大な敷地だからこそケルネル田圃を作ることができたのです。またケルネルの元々の専門は家畜飼養でしたが、当時の日本の畜産技術は未成熟だったこともあり、テーマを変えてこの水田を作ったのでした。 この水田は土壌や肥料の研究に大いに役立ったといいます。現在では作物ごとの適切な肥料量についての研究が進んでいますが、当時はまだ肥料の研究自体が発展途上でした。 化学肥料に必要なアンモニアを生産するハーバー・ボッシュ法が開発されて実用化されたのは1906(明治39)年以降です。日本では幕末からグアノ(海鳥の排せつ物でできた肥料)や過リン酸石灰などが輸入されていましたが、十分な研究がなされていませんでした。そこで、ケルネルは水田を作り、化学肥料を与えて試験を実施することで、農法の改善や肥料の与え方に有益なデータを得たのです。 「筑駒」に今も残る当時の文化「筑駒」に今も残る当時の文化 1888年には渋沢栄一らによって東京人造肥料会社が設立されていますが、これにはケルネルの試験結果が追い風になったとされています(熊澤喜久雄「キンチ,ケルネル、ロイブと日本の農芸化学曙時代 後編」『化学と生物』2013年第9号)。 日本の化学肥料の歴史が始まった水田ですが、残念ながらその後、大半は埋められてしまいました。 ですが、末端の一部だけは今も現存に筑波大学付属駒場中・高等学校(世田谷区池尻)による管理が行われています。「筑駒」と称されるエリート校が水田の管理をしているのは、前身のひとつである東京農業教育専門学校付属中学校が1947(昭和22)年に開校した際に教育の一環として水田を利用したことに由来するものです。 世田谷区池尻にある筑波大学付属駒場中・高等学校(画像:(C)Google) 現在もクラスで選ばれる水田委員による世話が行われ、毎年400kgあまりの米が収穫されています。
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