軍事バランスだけが本当に必要なのか? 夢の島「第五福竜丸展示館」から聞こえる平和へのメッセージを聞け
1954年3月に発生した第五福竜丸の被爆事故。その記憶を手繰り寄せるべく、都市探検家の黒沢永紀さんが江東区の「第五福竜丸展示館」を訪ねました。1954年3月1日の出来事 かつて大規模なゴミ処分場だった江東区の夢の島。その北端に、ちょっと変わった形の近未来的な建物が静かにたたずんでいます。「第五福竜丸展示館」。今回は、都内にある被爆遺構の話です。 「第五福竜丸展示館」内で静かに眠る第五福龍丸(画像:黒沢永紀) 放射能を浴びることを一般的には「被曝」と書き、その中で、特に爆弾によって放射能の被害を受けることを「被爆」というように火偏を当てて区別するようです。日本は、3度の被爆を体験している国。ヒロシマ、ナガサキ、そしてこの展示館に眠る第五福竜丸の被爆です。 戦争の痛手がさめやらぬ1954(昭和29)年の3月1日午前7時前(日本時間で4時前)。太平洋のほぼ中央、マーシャル諸島のビキニ環礁で、アメリカによる水爆「ブラボー」の爆発実験が行われました。その威力は、広島原爆の1000倍ともいわれ、付近のサンゴは粉々に砕かれてキノコ雲とともに舞い上がり、「死の灰」となって広範囲に降り注ぎました。 付近の海域でマグロ漁をしていた第五福竜丸は死の灰を浴び、程なくして乗組員にさまざまな体調不良が発症したため、直ちに帰航の途につきました。出航した焼津港に戻ったのは二週間後の3月14日。海上からSOSを出さなかったのは、信号をアメリカに傍受され、撃沈される危険性を考慮してのことといわれています。 日本国内で3000万人を超えた反核の署名日本国内で3000万人を超えた反核の署名 焼津市の病院に収容されて検査を受けた乗組員は、急性放射線症と診断され、すぐに治療が開始されました。その後、第五福竜丸の被爆と乗組員の病状が報道されると、一気に世の中の関心が集中し、乗組員の治療チームも結成され、東大付属病院および国立第一病院へ転院、さらに本格的な治療がほどこされることになります。 しかし先端医療による治療のかいもなく、半年後に無線長の久保山愛吉氏があえなく亡くなりました。辞世の言葉「原水爆の被害者は私で最後にしてほしい」は、第五福竜丸展示館の中庭に石碑となって残されています。 敷地内にある久保山無線長の辞世の言葉を刻みつけた碑(画像:黒沢永紀) 第五福竜丸の被爆と乗組員の訃報は、大きな平和運動のきっかけとなりました。各地で原水爆禁止の運動や核廃絶の署名活動が行われ、核兵器禁止の決議をした自治体も出はじめました。 そして事件の翌年、イギリスの哲学者バートランド・ラッセル氏と、原爆のきっかけを作ってしまったアルバート・アインシュタイン氏による「ラッセル・アインシュタイン宣言」が発表され、平和運動は国際的な広がりへと発展していきます。 やがて、国内での反核の署名が3000万人を超え、政党も一丸となった平和運動は国家規模で拡大したかに見えました。しかし、当初は超党派で行われていた反核運動も、やがて参加各党の思惑が反映し始め、政治的イデオロギーの相違から分裂。さらに、政治色を帯び始めた平和運動に嫌気が差した活動家の脱退などを経て、急速に求心力を失っていくことになります。 事件から14年後、再び浴びた注目事件から14年後、再び浴びた注目 水揚げされたマグロも放射線検査が行われ、その多くが破棄されることとなって、旧築地市場の敷地内へ埋設処分されました。 水産業に従事する生産者や加工業者などから成る大日本水産会は、その被害総額を約25億円と算定してアメリカへ提出するも、アメリカは第五福竜丸への“慰謝料”として乗組員にひとりあたり200万円を支払うにとどまり、吉田政権下の政府も、それで政治的完全解決と合意しました。これは、吉田内閣がアメリカの核実験に協力的だったことが要因ともいわれています。 そして、同年の12月にマグロの検査も終了し、多くの出来事に明確な決着がつかないまま、第五福竜丸の被爆事件は、徐々に人々の記憶から薄れていきました。 近未来的なシェル構造の第五福龍丸展示館の建屋(画像:黒沢永紀) 事件から14年、第五福竜丸が再び世間の注目を集めるときが訪れます。そのきっかけは1968(昭和43)年3月10日付け朝日新聞の「声」に掲載された『沈めてよいか第五福竜丸』と題された投書でした。第五福竜丸の現状と平和を訴えるメッセージが、薄らいでいた水爆実験の記憶を呼び覚ましたのです。 もともと第五福竜丸は、1947(昭和22)年に、カツオ船「第七事代丸」として建造された船でしたが、4年後の1951年にマグロ漁の船に改造され、第五福竜丸となりました。このときに、カツオ船独特のとんがった船首が取りはずされ、かわりにはえ縄の巻き上げ機が取り付けらています。そして、マグロ漁船となってから5回目の漁に出た際、水爆実験に遭遇しました。 1974年に東京都が永久保存を決定1974年に東京都が永久保存を決定 被爆した第五福竜丸は「危険な船」として、しばらくは焼津港の片隅に係留されていました。その後、アメリカから除染して処分する申し出があったものの、これを退けた国が、学術研究の名目で買い上げています。 研究に必要な部品が取り外された船体は東京へえい航され、東京水産大学(現・東京海洋大学)の管轄となって2年後の1956(昭和31)年に、放射能の安全性を確認。改装されて「はやぶさ丸」となり、以降11年間、水産大学の訓練船として活躍しました。 1967(昭和42)年に役目を終えたはやぶさ丸は、廃船処分となって解体業者へ払い下げられます。そして、エンジンや機械類が売り払われた後、残った船体はさらに業者を転々とし、最終的に14号埋立て地、すなわち夢の島に係留・放置されました。船体は傾き、沈みかけていたはやぶさ丸を、かつての第五福竜丸と紹介したのが、朝日新聞へ投書した武藤宏一氏(当時26歳)だったのです。 後年になって水揚げされた第五福竜丸のエンジン(画像:黒沢永紀) この投書がきっかけとなって、保存運動が徐々に拡散していき、1974(昭和49)年の10月に東京都が永久保存することを決定、2年後の展示館開館へとつながっていきました。 なお、売り払われたエンジンは別の船へ移植されたものの、その船も翌年に三重県の熊野灘沖で座礁し、台風で船体がバラバラになって海中に没してしまいます。エンジンを第五福竜丸とともに保存したいと願う市民の熱意によって海から引き上げられたのは、座礁から実に30年以上たった1999年(平成11)年のことでした。現在、エンジンは第五福竜丸展示館の中庭に展示されています。 報道されなかった被爆船の存在も明らかに報道されなかった被爆船の存在も明らかに 第五福竜丸の被爆と乗組員の他界、そして船の再発見は報道によって世間に広く知られましたが、実はそれ以外の数多くの問題が、事件後の六十余年の間に明らかになっています。 まずは、公になっていなかった被爆船の問題が挙げられます。最初の帰港船だったことから、第五福竜丸がメディアで大々的に取り上げられていた陰で、実は報道されなかった被爆船が数知れずあったことが明らかになっています。 当時、太平洋上でマグロ漁を行っていた船は1000隻以上にも及び、それらの多くが、第五福竜丸と同様に被爆していました。しかし、これらの船が大きく報道されることはなく、それどころか被爆船であることを隠してさえいたのは、第五福竜丸以外の被爆船になんら保証がなかったことや、被爆船とその乗組員に対する周囲の無理解を察知し、公言しない方がいいと判断したためといわれます。被爆後も、多くの被爆船が再び遠洋漁業に出航していました。 次に、乗組員の病状に関する問題が明らかになっています。事件直後に急性放射線症と診断された第五福竜丸の乗組員たちは、東京の病院へ転院後、当初は回復へ向かっていました。しかし、しばらくすると多くの乗組員が肝機能障害を発症し、亡くなった久保山無線長の死因も肝機能の低下によるものでした。 そして、この病状悪化の要因が、被爆によるものではなく輸血によるウイルス感染によるものと、その後の調査によって明らかになったといいます。事実、同様に被爆したはずのマーシャル諸島の被災者に、肝臓系の疾病は発症していませんでした。 放射能に対する無知から生まれた迫害放射能に対する無知から生まれた迫害 しかし直接的な要因が医療過誤であったとしても、被爆していなければ輸血することもなかったでしょうし、また放射線症に全くかかっていなかった、とはいいきれません。第五福竜丸以外の被爆船乗組員の中には、白血球の著しい減少など、明らかに放射線症と診断できる症状で亡くなっている人もいらっしゃいます。 さらに、被爆者が2次被害を受けていた問題も明るみに出ました。放射能に対する情報量の少なさから、被爆した船員たちは放射線症がうつるとされ、ひどい仕打ちを受けていました。当然伝染病ではないのでうつることはありませんが、そのせいで多くの乗組員が故郷を追われ、ほかの地域への移住を余儀なくされています。 「第五福竜丸展示館」の場所(画像:(C)Google) 特に第五福竜丸の乗組員は、彼らだけが慰謝料をもらったとされ、他の被爆船の乗組員からのねたみも被っていました。ただし被爆船の中には、船長から「あれだから」といわれて慰謝料が渡されていたケースもあったようです。 もちろん、マグロ市場の問題も忘れるわけにはいきません。放射能を浴びたとして、総量約490tものマグロを廃棄処分したものの、国民の不安に歯止めが利かず、魚価は一気に下落。鮮魚はもちろん水産加工物まで売り上げが激減し、日本の水産業全般に深刻な打撃を与えました。 1954年公開『ゴジラ』に与えた影響1954年公開『ゴジラ』に与えた影響 そして、死の灰の問題です。事件から五十数年たって公開されたアメリカの機密文書には、世界122か所に観測所を設けて調査した結果が記されていました。それによると、ビキニの水爆実験によって舞い上がった死の灰は、日本列島を完全に覆っていただけではなく、気流に乗って地球を一周し、アメリカ本土へも到達していました。 1954(昭和29)年公開の東宝映画『ゴジラ』は、そのキャッチコピーが「水爆大怪獣映画」であることからもわかるように、第五福竜丸の事件に着想して作られたといわれます。平和な時代を歩み始めた日本を襲った第五福竜丸の事件は、まさに突然現れたゴジラと同じだったのではないでしょうか。 夢の島に佇み崩壊寸前だった第五福竜丸(館内展示写真/撮影:森下一徹) 第五福竜丸の事件は、ヒロシマやナガサキの原爆とは違い、平和の元でも核に脅かされる時代の幕開けを告げるものでした。そして平和と核の共存は、ビキニ事件から65年たった今も変わりありません。 バランス・オブ・パワー(軍事バランス)以外の世界平和は本当にないのでしょうか。第五福竜丸は、過去の歴史を物語るメモリアルではなく、今もさまざまな問題を語りかけながら、平和への航海を続けている船なのだと思います。 なお、第五福竜丸展示館では、2020年3月10日(火)まで写真展『ビキニの海は忘れない~漁師たちの証言とポートレート』を開催中です。被爆船乗組員の力強さと静けさが共存するポートレート写真とリアルな証言は、物言わぬ第五福竜丸に命を吹き込んでいるかのようです。ぜひご覧になってはいかがでしょうか。
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