1947年の悲願 東京「練馬区」だけが区の発足を「独立」と呼ぶワケ
「独立」にこだわる練馬区 8月1日は練馬区の独立記念日。東京の中でも練馬区だけは区制のはじまりを「独立」という言葉で表現するのをご存じでしょうか。 というのも、練馬区は板橋区から独立して成立したからです。2017年には独立から70年を迎えて、区内各所で盛大な行事が開かれました。 成立ではなく、独立という言葉を使う練馬区。独立というのは、一般的に平穏無事に行われるものではありません。人類の歴史を振り返っても、アイルランド独立とかインドネシア独立、アンゴラ独立など、血と汗によって達成されるものなのです。 もちろん血こそ流れませんでしたが、練馬区は独立達成まで、22年間にわたる苦闘を繰り広げてきました。 板橋区からの独立は、練馬区にとって特別な意味合いを持っているようです。区議会の議事録や広報紙といった資料を閲覧できる区役所内の区政情報コーナーにも、次のような独立関係資料コーナーと、案内がきちんと記されているのです。 ・板橋区から独立 ・独立記念誌 ・30周年史「練馬区史」はこの棚の裏 練馬区は独立した歴史を刻むため、10年ごとに記念誌が作られています(30周年は練馬区史を編さんし発行)。 中でも『練馬区史』と60周年記念史には、独立へと至る苦闘と、そのために戦った区の偉人たちの顕彰が行われています。 反発した8町村反発した8町村 大正時代から関東大震災を挟んで、当時の東京市は人口が増加し、街の規模を広げていきます。大正時代には、それまでの東京15区と荏原郡・豊多摩郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の5郡82町村、現在の23区に相当する地域を含めて「大東京」と呼ばれるようになっていました。 現在の練馬区(画像:(C)Google) 1932(昭和7)年、それら周辺地域も含めて新たに東京35区が成立します。このとき、現在の練馬区が所属する北豊島郡は、池袋区・滝野川区・三河島区・王子区・板橋区の5区にわけられることになりました。 東京市がこうした区分けをしたのには理由がありました。旧来の15区の平均人口14万人を基準に区をつくることにしていたからです。 当時の北豊島郡は人口約86万人だったので、6区になるところですが、練馬や石神井、大泉などは人口が少なかったのです。 これには東京市も悩んだようで、「地域広大なりと雖(いえど)も当分の内、特に合して一区となるを適当なりとす」としていました。 現在の練馬区と板橋区を合わせた地域で板橋区とするものの、あまりにも広すぎることから、東京市は将来的な分離を視野に入れていたのです。 この案が公になると1932年10月1日に迫った板橋区の成立を前に、現在の練馬区にあたる8町村(中新井村・石神井村・赤塚村・志村村・大泉村・練馬町)は連名で板橋区を拒否。将来の住宅地としての発展を見据えて、一区となりたいという陳情を行います。 しかしこの陳情は実を結ばず、現在の練馬区は板橋区の一部として成立します。 戦時下でも続いた独立への動き戦時下でも続いた独立への動き この頃の事情は、1975(昭和50)年7月に練馬区長応接室で行われた「練馬区独立記念回顧座談会」で語られています(『練馬区史』現勢編 所収)。 「道路のほとんどは砂利道で、牛馬や馬車が通っている状態でした。区役所(板橋)に行くには、武蔵野線(いまの西武池袋線)に乗り、池袋で乗り換えて板橋の駅まで行くということでした。あまりに不便だというので練馬に支所ができました。大泉や石神井はもっと不便でした」 「武蔵野鉄道が二時間おきだったんですがね。一時間も待っていたら池袋の終電が八時というのでどうにもならないこともありました」 当時の練馬区はほとんどが農村地域だったため、役所などの公共機関やインフラはすべて当時発展していた板橋になってしまいます。 今ではネットワークインフラがあるため、23区のどこの支所でも大半の業務は行えますが、当時は事情が異なるため、支所である練馬と石神井の派出所に対する不満は耐えないものでした。 そもそも、区役所の位置をめぐる問題は板橋区成立前から紛糾していました。 東京市の案では、北豊島郡役所をそのまま使う計画でした(現在の板橋区役所駅近くのリビオタワー板橋の場所)。これに対しても練馬側からは反対が行われており、怒りはたまっていきます。 リビオタワー板橋の所在地(画像:(C)Google) 練馬の独立に向けた動きは、戦時下でも続いていました。 1943(昭和18)年に東京都制が施行されますが、このときに都議会議員に選ばれた加藤隆太郎は都議会で「練馬・石神井地区の一区独立」を提言しています。さらに加藤は、住民たちにも団結を呼びかけます。 1944年2月14日、加藤は練馬警察署に町会長や区会議員、団体代表を集めて「練馬区設置既成会」を結成、会長には元陸軍少将の中村四郎が選ばれます。 こうして始まった独立運動に、東京都は好意的でした。しかし戦局の悪化を受けて、内務省は行政区の境界変更1年間停止する通達を出します。 とはいえ、東京都は練馬派出所を練馬支所に格上げし、石神井派出所を練馬支所石神井出張所に変更するなど、将来の練馬区成立に向けた準備も行っています。戦時下でここまで運動が進んだくらい、練馬区にとっては「悲願」だったわけです。 ピストルを持った米兵に囲まれたこともピストルを持った米兵に囲まれたことも 独立運動は、終戦とともに新たな動きを見せます。 1946(昭和21)年には、板橋区会で練馬支所管内の分離独立の意見書が可決。8月8日には練馬支所管内の住民が集まり、開進第三小学校(練馬区桜台)で「練馬区独立区民大会」を開催、いよいよ運動は活発化します。 それに先立つ7月、東京都では35区を再編する区割り案を示していました。これは東京を22区とする案で、練馬区は依然として存在していませんでした。 独立を求める陳情は、東京都や内務省、連合国軍総司令部(GHQ)などへと続きます。 GHQを訪問した際には「独立」という言葉を使ったために「練馬が日本から独立する」と思われたのか、ピストルを持った米兵に囲まれ、何度も練馬支所へ取り調べがきたといいます。 練馬区独立案は板橋区会で可決され、東京都への陳情は活発化。容認の声が大きい一方、35区を少しでも圧縮する計画を満たすため、独立は認められないという意見も噴出します。 ここで問題になったのは、世田谷区の玉川地区の動きでした。この地区では、玉川区を求めて陳情を行っていたのです。 「60周年誌」では「練馬にとっていっそう不利なものになった」と、ひどい迷惑だったことを匂わせています。この事情は区史に書いてありますが、当時の板橋区の人口は約26万人。うち練馬は10万人の人口を抱えていました。 対して、世田谷区は人口36万人。うち玉川地区の人口は6万人に過ぎませんでした。同じような運動と思われては困ると考えていたようです。 ちなみに板橋区会が練馬区独立を議決した背景には、練馬住民が議員を回って説得して歩いたことが区史では記されています。ダットサン(日産自動車のブランド)を使って、半年あまりかけて賛成してくれる議員を取りまとめたようです。 それでも賛同する人ばかりではなかったようで、区史には「百姓共何しに来たというような風で話を受け付かなかった(中略)皆心の中では怒って帰ってきたことがあります」とったような証言も記されています。 苦難の歴史を忘れない苦難の歴史を忘れない 1947(昭和22)年3月15日、東京都は結局、22区制を施行します。しかし、既に東京都は練馬区の分離独立を決めていました。 3月12日には東京都長官・安井誠一郎から板橋区長に練馬支所管内の分離独立を区会に提案するよう指示が行われます。3月13日、板橋区会はこれを可決しますが、15日の新区制施行には間に合いませんでした。 この後、4月には板橋区会の選挙が行われ、定数45人中、練馬からは19人が当選。5月3日に日本国憲法が施行され、板橋区会は板橋区議会として再出発します。 この区議会で練馬区独立は改めて仕切り直しになります。 練馬では独立派が多数だったものの一枚岩というわけではありませんでした。練馬区になると、税負担が増加することを危惧する声もあったのです。そのほかの事情も挟んで、新憲法下での区議会で改めての独立決議は引き延ばされてしまうのではないかと危惧する声もありました。 そうした中で、運命の7月1日を迎えます。 前日から召集されていた区議会臨時会は、会期を1日延長していました。ここで、練馬側から選出されていた上野徳次郎区議が突如「練馬支所・石神井支所管轄区域の区新設促進に関する緊急動議」を提出します。 これに対して区議内の林信助議長は「上野議員発言許可」とします。議場は騒然とし10人の議員が議場を退場。その上で採決が行われ、出席議員42人のうち賛成28、反対4、退場10で動議は可決します。 この一連の動きは区史などでも言葉を選んで書いていますが、こういうことです。 林議長は江古田町の住人、すなわち練馬独立派です。練馬独立派の中では新制区議会で奔走し林議長を仕立てた上で、上野区議が緊急動議を出したら、林議長が「発言許可」というシナリオを事前に準備していたわけです。 こうした根回しは議会でよく使われますが、あまりに露骨すぎるとして怒った区議が退場したのです。直後には怒った区議が議長不信任案を提出しますが、「林議長の誠意ある対応で、不信任案は撤回されて事なきを得た」とあります。 練馬区豊玉北にある練馬区役所(画像:写真AC) こうして8月1日、ついに練馬区は人口11万の区として成立したのです。 練馬区が「独立」という言葉を使う背景には、こうした苦難の歴史があったのです。それを忘れないという気持ちが、今でも生き続けているのです。
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