あなたの街にもきっとあるはず……古くて美しい「看板建築」を徹底解説、そのルーツは約100年前にあった
「看板建築」とはどのような建築を指すのでしょうか。またそこから見えてくる東京の街並みの成り立ちとは? 歴史建築に詳しい、著述家の黒沢永紀さんが解説します。看板建築とは?「看板建築」――。ちょっと耳慣れない言葉だと思いますが、実は都内の、さらには国内の路面商店のほとんどが看板建築でできています。 昭和レトロなラーメンが美味しい栄屋ミルクホールが入店する銅板葺の看板建築(画像:黒沢永紀)「えっ! ほんと!?」と思われたことでしょう。 そう思われた方は、最寄りの商店街を通る時に、そこに建ち並ぶお店の形にちょっと注目してください。一般の家屋と違って、道に向いた面が、垂直に立つ四角い壁でできているお店がきっとあるはずです。これが看板建築。 看板といっても、実際の広告看板が張ってあるわけではなく、看板のように大きくて平らな面に、銅板やタイルが張られた木造の商店建築を「看板建築」といいます。 もしその壁が緑青色をした銅板葺きだったら、とてもラッキー。また、すでに看板建築をご存知の方も、看板建築が店構えの「革命」だったことはご存知でしょうか。その歴史は今から約100年前にさかのぼります。 もともと国内の商店は、町家といわれるものがほとんどでした。1階の軒先が2階より突き出し、店の中へ入って商品の品定めをする造りで、今でも酒屋をはじめ、町家造りの商家は数多く残っています。 しかし、1923(大正12)年の関東大震災によって、東京は壊滅的な被害を受けました。建屋の崩壊は、半壊も合わせて26万棟、焼失が45万棟。この数は、当時東京中心部にあった建物のゆうに半数を超えています。 震災で廃墟と化した東京は、すぐさま区画整理が行われ、その際に、建屋(機器・設備を格納した建物)を道に張り出して造ってはいけないという決まりも生まれました。 その結果、従来の1階が張り出した造りから、なるべく土地を有効利用できる、垂直に立ち上がった造りへと移行します。折しも西洋から鉄筋コンクリートのビルという新しい建物が伝わった時期とも重なり、垂直に立てた店構えの表面を高くして瓦屋根を隠し、さらに洋風に仕上げることで、少しでも欧米の雰囲気に近づけようと苦心した結果が看板建築となりました。 ウインドウ・ショッピングの誕生もこの看板建築の造りから。こうして、従来の商家とは全く異なる店が建ち並ぶ商店街が誕生したわけです。ちなみに、看板建築という表現は後年のもので、建設当時は「街路建築」と呼ばれていました。 都内には2種類の看板建築がある都内には2種類の看板建築がある ところで、都内には、大きく分けて2種類の看板建築があるのをご存知でしょうか。ひとつは、関東大震災後に建てられたもの。そしてもうひとつは、戦後に建てられたものです。 先の大戦でも、東京は壊滅的な打撃を受け、焼け野原からの復興に際して、再び看板建築が造られました。こんにち、多くの街で見ることのできる看板建築は、この戦後に建てられたものです。 戦前と戦後の大きな違いは、装飾の有無が挙げられます。戦前の看板建築は、道に接した面を銅板葺にしたものが多く、戸袋などには凝った江戸小紋があしらわれているのをよく見かけます。 また、タイル張りの物では、スクラッチタイルと呼ばれる、表面に引っ掻きキズが入っているものが多用されました。人造石やモルタルは戦後の看板建築でも使われた素材ですが、戦前のものは、屋号などの浮き彫りがあったり、窓枠が柱状に造られていたりと、ちょっとしたヨーロッパ風の味付けが施されています。 かたや戦後の看板建築は、耐火効果が認められなくなった銅板が使われることはほぼありません。タイルも手間がかかる上に値段も張るのであまり使われませんでした。 戦後最も多いのはモルタルですが、戦前のものと比べると、圧倒的に装飾がなく、垂直に立ち上がるフラットな壁に、ぶっきらぼうに玄関と窓が付いているものがほとんど。俗に「豆腐に目鼻」と呼ばれた戦後建築の特徴が、看板建築にも色濃く現れています。 緑青色の銅板は自然が創り出す時間芸術 同じ看板建築でも、戦前と戦後ではこれだけ大きな違いがあります。そして看板建築の真骨頂は、やはりオリジナルでもあり見た目も楽しい戦前のものでしょう。これらは、神田や日本橋など古くからの繁華街の中で、かろうじて戦災を逃れた地域に、今でも集中して残っています。 オーナーの愛情で見事に保存されている、1928(昭和3)年築の海老原商店(画像:黒沢永紀) 築地の宮川食鶏卵店(中央区)や神田多町の栄屋ミルクホール(千代田区)は、美しい緑青の看板建築。湯島では人造石で造られた五軒長屋の看板建築を見ることができます。鳥越のおかず横丁(台東区)は、戦前看板建築の宝庫。そして神田須田町の、画家がデザインしたタイル張りの海老原商店(千代田区)は、オーナーの愛情によって綺麗にリノベされ、イベントスペースとして解放されています。 2015年に、歴史的建造物の保存に取り組む「ワールドモニュメント財団」(アメリカ)が、築地に残る昭和初期の建物の多くを「絶滅危機遺産」に指定しました。その中には看板建築も含まれていましたが、旧ワカマツヤ洋品店(厳密には看板建築ではなく全面銅板葺の町家)をはじめ、あっさり解体されてしまった建物も少なくありません。 特に銅板は、20年くらい経過しないと魅力的な緑青色にならず、いわば自然とのコラボが創り出した時間芸術でもあります。 もちろん、費用対効果の面からも、老朽化の面からも、建て替えは必要なことでしょうが、昨今では、Kitte(千代田区丸の内、旧東京中央郵便局)や日本橋ダイヤビルディング(中央区日本橋、旧三菱倉庫本社ビル)のように、以前の建物の外観などを残して再生した上に、全く新しいビルを増築するタワー・オン・ザ・ベースという施工方法もあります。 長い時間をかけて熟成した銅板葺の壁も、なんとか再利用できないものかと思います。 街並みを残すということは、歴史を目に見える形で継承するということ。じっちゃんやばっちゃんが創りあげてきた街と共に生きる時、人は時の流れの中で生きている実感と、歴史ある土地で生きる誇りを持てるのではないでしょうか。
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