数は100店以上! 銀座周辺に「画廊」「ギャラリー」がやたらと多い理由
中央区の京橋から銀座周辺に美術関連のお店が集まっている場所があります。いったいなぜここに? フリーライターの小西マリアさんが解説します。中央区にもあった「骨董通り」 中央区の京橋から銀座かいわいを歩いていると、美術関連のお店が特に多く、画廊やギャラリー、アートセンターなど、その名称もさまざまです。資料で数えてみたところ、美術関連のお店は中央区内に90~100店ほどあるようです。同区内のコンビニエンスストアは約270なので、いかに多いかがわかります。 そのような集積を反映してか、中央区には別名「骨董(こっとう)通り(東仲通り)」と呼ばれる通りがあり、日本橋から京橋へと、八重洲通りから鍛冶橋通りまでを南北につないでいます。 中央区「骨董通り」周辺(画像:(C)Google) よく知られる港区南青山の骨董通りは1980(昭和55)年頃に出現しましたが、こちらは由来は不明ながらも、戦前からこの名で呼ばれていたようです。 戦前には、多くの分野で活躍した芸術家・北大路魯山人もこのかいわいに店を開いていました。周辺は江戸時代からの繁華街ですが、元々は武家を相手にした刀の鞘(さや)や調度品、書画骨董を扱う店が多くありました。 当時の書画骨董(書道と絵画と古美術の総称)は、単に鑑賞して楽しむだけでなく、幕府の役人や大名たち、豪商たちの贈答品の役割もありました。そのため書画骨董の流通や生産は活発で、そうした品々を武家や豪商相手に販売するだけでなく、生産拠点もありました。 明治以降、多くの店が進出明治以降、多くの店が進出 代表的なのは幕府の御用絵師であった狩野派です。江戸幕府の成立後に御用絵師となった狩野派は ・鍛冶橋狩野 ・木挽町狩野 ・中橋狩野 ・浜町狩野 の4家にわかれ、奥絵師と呼ばれる幕府に使える絵師の頂点となりました。 いずれも日本橋、京橋に近いかいわいに拠点を構えていましたが、この周囲に門人(弟子)や関連業者だけでなく、ほかの流派の絵師も集まるようになりました。 江戸時代の日本橋かいわいには市場があったため、全国から集まったさまざまな物品が流通し、評価基準の基礎となっていました。書画骨董もそうした商品のひとつだったといえます。 画廊のイメージ(画像:写真AC) そうした店は明治以降、企業や上流階級を顧客とする近代的な古美術商として、姿を変えていきます。そしてさらに多くの店が増えたのは、同業種で集積する必要があったからです。そうしないと「この美術品の価格を幾らにすればよいのか」という評価基準を決めにくかったのです。 銀座に見られる画廊の集積 書画骨董を中心とした日本橋、京橋かいわいに対して、近代以降の日本画や洋画を扱う、いわゆる画廊が集積したのが銀座です。これもまた書画骨董と同様、流通と評価基準のために集まっています。 この集積は、銀座が日本を代表する繁華街として発展したことと切り離せません。 銀座三越(画像:写真AC) その大きな理由は、美術品の販路としてデパートの存在が欠かせないためです。たいていのデパートでは、美術画廊やギャラリーと呼ばれるスペースが存在します。銀座三越(中央区銀座4)、松屋銀座(銀座3)ともにギャラリーが7階にあり、さまざまな展示が行われています。 ギャラリーで美術品を購入する客層は、宝飾品などの見込み客を得るために欠かせないとデパートは考えているのです。 変化する画廊の役割変化する画廊の役割 かつてのデパートのギャラリースペースは、のぞいてみるには気後れするような雰囲気でした。なにしろ、置いてある美術品は100~200万円が当たり前で、見るからにお金持ちそうな客と係員が専門的な会話をしていたからです。 しかし、最近はそんな雰囲気も様変わりしています。従来のような高価な美術品の展示もある一方、数万円で買えるような若手作家の作品も展示販売しています。その背景には、現代アートや新進の作家の作品を扱うことで、購買層の間口を広げようとしていることが挙げられます。 このような販売方法の変化は、画廊自体にも変化を及ぼしているようです。以前から若手の作家を発掘し、作品の価格を上げるプロデュース業務に傾注する画廊は存在していましたが、それがより重要な仕事になっています。 銀座松屋(画像:写真AC) 今は多くの商品がインターネット上で流通しているため、現物を見なくともやりとりできるようになっています。それでも美術品に限っては、現物を確認しなくてはならないため、ネットで完結したり、テレワークに切り替えたりはできません。 中央区に美術品を扱う店が集中する状況は、当面続きそうです。
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