池袋「本町」なのに池袋駅からずいぶん離れている理由
豊島区池袋本町は、繁華街である池袋駅周辺から遠く離れた場所にあります。本町なのになぜ? ルポライターの昼間たかしさんが解説します。「北」池袋はどこにいったのか 東京都でも有数の繁華街である豊島区池袋。この街の住所を見ると、少し不思議なことに気がつきます。 ・池袋1~4丁目 ・東池袋1~5丁目 ・西池袋1~5丁目 ・南池袋1~4丁目 ・上池袋1~4丁目 ・池袋本町1~4丁目 東・西・南・上はあるにもかかわらず、なぜか「北」がないのです。上池袋の「上」は北を意味していますが、それにしても、町名の池袋を囲むように東西南の池袋があるのに、真上は池袋本町。なお池袋本町1丁目には、東武東上線の北池袋駅があります。北池袋駅は直線距離で、池袋駅から1300m以上も離れています。 赤枠のなかがる豊島区池袋本町。池袋駅から遠く離れている(画像:(C)Google) 不思議な点は、次のふたつです。 ・本来「都市の中心の町」を意味する「本町」が池袋の繁華街から外れたところにあること ・池袋本町の場所が北池袋という町名になっていないこと きっとそこに知られざる歴史があるに違いません。早速、この謎を探ってみることにしました。 まず、池袋本町が生まれるまでの経緯をまとめておきます。 ・1889(明治22)年:市制町村制により巣鴨村の大部分、池袋村、新田堀之内村、堀之内村飛地などが合併し巣鴨町・池袋村・巣鴨村誕生。現在の池袋本町は池袋村に(所属は北豊島郡)。 ・1918(大正7)年:町制施行し西巣鴨町となる(現在の駒込、巣鴨、南北大塚などからなる巣鴨町が既にあったため「西」がつく)。 ・1932(昭和7)年:巣鴨町・西巣鴨町・高田町・長崎町が東京市に編入され豊島区を設立。池袋1~8丁目設立。現在の池袋本町は1~7丁目のそれぞれ一部に属する。 ・1969(昭和44)年:4月1日より住居表示を実施し、池袋本町1~4丁目が誕生。 現在の池袋本町は豊島区成立から住居表示実施まで、池袋1~7丁目のそれぞれ一部だったのです。 1960年代から始まった住居表示の実施で、(旧)池袋1~7丁目の解体、周辺町域との合併で新たに現在の町名が誕生。となると、やはり北池袋ではなく池袋本町になった理由が気になります。 旧町域の一部が分割された理由旧町域の一部が分割された理由 豊島区は住居表示を実施する際に旧町域の一部ずつを分割して、新たな町域を設定している事例が非常に多いです。以下、事例の一部です。 ・東池袋4丁目:池袋東1丁目、西巣鴨1~2丁目、日出町1~2丁目の各一部 ・南池袋4丁目:池袋東3丁目、日出町1~2丁目、雑司ヶ谷1~3丁目の各一部 ・雑司ヶ谷3丁目:目白町2丁目の全部、池袋東2丁目、雑司ヶ谷2~3丁目、高田本町2丁目の各一部 これは元々は田畑や山林だったところが、整理されないままに市街地化が進んだためです。このあたりは江戸時代から天領(幕府領)、旗本領、寺社領が入り乱れた土地でした。つまり、無数の飛び地が複雑に入り乱れる地域だったのです。 現在の池袋駅周辺と明治初期の様子(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)(アーバン ライフ メトロ) 明治以降、巣鴨村・西巣鴨村などが設立される時点でも整理は行われていますが、もとが田畑だったことに由来する複雑な地番はそのままでした。あまりに複雑なため、1軒の家の敷地が複数の町域に分割されている事例もざらでした。 よく事例として上がっていたのが、山手線の大塚駅周辺(南大塚1~3丁目)です。現在の南大塚1~3丁目は、住居表示実施まで巣鴨5~7丁目と西巣鴨2丁目でした。そのため、大塚駅の方面に用事がある人が巣鴨駅で降りて迷ってしまうこともざらだったといいます。そうした混迷する状況を改善するために、大なたが振るわれたのが豊島区の住居表示でした。 では、まず池袋本町の町名の由来から探っていきましょう。豊島区区民部区民課の制作した『東京都豊島区町名の由来』(1987年)に、こう記されています。 「昔の池袋村字本村から名付けられました」 筆者は以前、2021年8月11日に配信したアーバンライフメトロの記事「渋谷区「本町」なのに渋谷駅からずいぶん離れている理由」で渋谷区本町について書きました。この渋谷区本町も現在の渋谷区の繁華街からは外れた地域にあるのですが、もとは幡ヶ谷村字本村だったことから本町という町名になっています。ということで、池袋本町も同様に昔の字名由来というわけです。 昔は街の中心地だった本村昔は街の中心地だった本村 本村という名前から想像されるように、元々の池袋の中心はこちらでした。1916(大正5)年の地図を見ると、池袋駅周辺でも発展が始まっているものの、本村を始め、池袋駅よりずっと北のほうが栄えています。 一方、1909(明治42)年の地図を見ると不明瞭ではあるものの、池袋駅周辺には街がなく、人口が集まるのは本村だとさらによくわかります。渋谷区本町と同じく、今は繁華街からは外れた地域でも、元々の中心はこちらのため「本町」を名乗ったというわけです。 左が1916年の池袋駅周辺の地図、右は1909年の地図(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)(アーバン ライフ メトロ) しかし、なぜ池袋本町という町名になったのでしょうか。 東・西・南・上池袋はいずれも住居表示を実施した際に決められた町名です。となると、現在の池袋本町にも町名を北池袋にする動きがあったのではないでしょうか。インターネットで検索すると、住居表示を実施する際に町名を北池袋にする動きがあったものの、住民の反対運動で池袋本町となったと記述しているウェブサイトがありました。 ただ、この記述がどの資料をもとにしているのかが不明のため、地元の口伝なのかどうかすらわかりません。果たしてこれは事実なのでしょうか。資料を求めて豊島区立中央図書館(豊島区東池袋)を訪ねました。 そして、当初は町名が北池袋になる予定だったのが、池袋本町となったという確かな記述が見つかりました。 「北池袋」に対する住民の反発「北池袋」に対する住民の反発 資料のひとつは『東京地名考』上巻(朝日新聞社、1986年)です。これは『朝日新聞』に連載された連載「地名を歩く」をまとめたものです。 『東京地名考』上巻(画像:朝日新聞社) この本の池袋本町の項目には次のように記されています。 「区案は北池袋だったという。『役所に代案を出しても通ったためしがない』と年寄りはあきらめ顔だったが、各町会が結束して池袋本町を実現させた」 さらに別の資料からは、区の示した北池袋の案がかなり短期間で変更されたこともわかりました。 最初に北池袋という案が示されたのは1968(昭和43)年2月です。『豊島区広報』1968年2月20日号では、第4次住居表示に関する住民向け説明会の開催を知らせる記事を掲載しています。 この広報に掲載された地図を見ると、現在の池袋本町は北池袋3、5~6丁目となっています。この案が示されるとすぐに地域では「北池袋ではいやだ」という意見が出て、区は修正に応じることになったようです。 『豊島新聞』1968年5月14日付では「第4次住居表示 13日審議会に諮問」という記事を掲載。ここでは、地図上に北池袋の地名は消え、池袋本町1~4丁目が書かれています。記事では、これまでの経緯を次のように記します。 「住民の意見も十分に取り入れられた結果、昨年12月に出された素案とは町名などもかなり変えられている。昨年八月の法改正(注:国会で、住居表示に関する法律の改正で住民の意見を繁栄するが重視されるようになった)よって、住民意向というものが新法によっては特に大きく取り上げられたが、そのあらわれとしてのこんどの案で、住民の抵抗は比較的少ないとみられている」 こうして『豊島区広報』1968年8月20日号では、町名が池袋本町に決定し、翌年4月1日から実施することを知らせています。また町名の由来も 「現在の池袋五丁目付近が昔西巣鴨村池袋字本村といったことに原因としています」 とあります。正確には池袋村のときからですが、いずれにしても字由来であることがわかります。 今回の調査では地域新聞の存在により、深い全体像が浮かび上がってきました。ただ、住民がなぜ「北池袋」に難色を示したのか。それは以前謎のままです。
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